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正法眼蔵 心不可得(後) 22

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張はまだ続きます。

先に述べられた長年の修行を積まれた五人の方々は、そろいもそろって五人とも大証国師の持っておられた性質、実体というものがはっきりわかっていない。釈尊の教えを勉強する上で、まだ力が足りないように思われる。はっきり知っておかなければならないことは、大証国師はあらゆる時代を通じて真実を体得した人として通用する方であり、正法眼蔵(釈尊が説かれた正しい宇宙秩序の眼目)というものを明白に正しく伝えられている。理屈や文字で経典を勉強していこうとする人々には、大証国師の端にさえ理解が及ばないと言う事は大証国師と大耳三蔵との問答によってわかる。

大耳三蔵の言う「人の気持ちがわかる」と言う能力は、大証国師の坐禅の立場から考えるならば、その一本の毛の端、半本の毛の端にも達することのできない能力であるから、大証国師の心がわかるという理解をしているとすればそれは誤りである。坐禅をする事によって仏道を勉強して、坐禅の立場と理屈の立場とが違うということをはっきり知るようになった人々は、理論だけで勉強している人々は、大証国師の持っている性質がどのようなものであるかという事を全く見ることが出来ないと勉強すべきである。

仮に大証国師のおられる場所が、先の二度は大耳三蔵にわかって、三回目だけがわからなかったのであるならば、大耳三蔵は三回のうち二回まではわかる能力があったのであるから、叱るべきではない。そして仮に叱ったとしても全部が全部欠けていたということではない。仮に三のうちのニだけが正しかったというのであるならばこれを叱った場合、大証国師が正しいと言う事を誰も信ずるはずがない。大証国師が三耳三蔵を叱ったその訳は、大耳三蔵が三回の質問すべてにおいて、釈尊の説かれた教えを基準にした体や心、つまり坐禅をやっている時の体や心を持っていないということを叱ったのである。

また、この五人の先輩方は、いずれも大証国師の行動がどういうものであるかという事がわかっていなかったから、十分な批評ができなかったのである。この様な理由から、自分(道元禅師)は釈尊の説かれた教えの中における心不可得(心と言うものは、つかまえる事が出来ないものである)という理論を説明しているのである。この釈尊の説かれた教えにおける、心不可得という教えに通達することが出来ない人々が、この他の原則に通達していると言う事は信じ難いことである。過去の大先輩方においても、このように間違いは間違いとしてはっきり認識しなければならない場合があることを知るべきである。



          ―西嶋先生の話―

日本の国は仏教国と言われておりますけれども、私はどうも現代の日本は仏教国と言われていいのかどうか、甚だ疑問のような気がするわけであります。なぜかと言いますと、仏教国と言われる以上は仏教という考え方を信じる人が多い、国民のかなりの部分の人々が仏教という考え方を信じている、それで仏教国だというふうに感じるわけでありますが、今日の日本の社会の実情を見てみますと、仏教的な考え方を信じている人は非常に少ないんじゃないか、そう感じられる面が非常に多い。

なぜそういうことを言うかと言いますと、たとえば現代の我々の住んでいる社会には、偉い人がたくさんいる。それから自分はだめだと思っている人がたくさんいる。つまり、今日の我々の社会には、「自分は偉い」と思い込んでいる人と、「自分はダメだ」と思い込んでいる人の二種類の人が非常に多い。ところが仏教という考え方は、偉いとか偉くないとかという事とは別の考え方である。偉いとか偉くないとかという事はあまり大した問題じゃない。むしろ仏教が問題にしているのは、自分自身というものがよくわかっておるかどうか、自分自身の本領を日常生活において十分発揮できているかどうか、という事が仏教という考え方の基本である。

ところが今日では、大抵の人を見る場合に、「偉い人」とか「偉くない人」とかという、そういう二つのレッテルを張って人間というものを評価していくということが盛んである。このことは、仏教という考え方を信じている人が今日の日本においては非常に少ないということの、はっきりした証左ではなかろうかと、そういう風に思うわけであります。仏教という考え方が日本の国内でもう少し理解されてくるようになると、日本は仏教国だとか、仏教国でないとかということが言われる段階に入ってくると思いますが、今日のところでは、遺憾ながら仏教的な考え方というものが我々の住んでいる社会には極めて少ない。

だからそういう点では、日本の国が現在はたして仏教国と言われていいのかどうか大変疑問だと、そういう感じを最近非常に強く感ずるというのが実情であります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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