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正法眼蔵 心不可得(後) 21

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます

この玄沙師備禅師の言葉を聞いて、雪竇明覚禅師は「敗けた、敗けた」といった。つまり玄沙禅師の言葉の境地が非常に高いから「自分はとてもかないません」と言う事を言った。この「敗けた、敗けた」という言葉は、玄沙師備禅師の言葉が真実であるという見方をした時にこのように言うべきである。もし雪竇明覚禅師がもう少し力量があって、玄沙師備禅師の言葉がどうも本当ではないということがわかっていたならば、このように「敗けた敗けた」という言葉は言わなかったであろう。

また海会守端禅師が言われるには「大証国師が仮に大耳三蔵の目と鼻の先にあったならば、どうして見ることが難しいという事があり得たであろう。大証国師が大耳三蔵の目の玉の中に入ってしまっていたという事を、趙州従諗禅師は知っていなかった」と述べている。海会守端禅師の言葉も、また三番目の答えについてだけを論じている。前の二度も見ていなかったという事を叱るべきでありながら、これを叱っていない。大証国師の目と鼻の先にあったという事がどういう意味であり、目の玉の中にいたという事がどういう事か実情がわかっているはずがあろうか。



          ―西嶋先生の話―

こういう難しい本「正法眼蔵」を何のためにやるんだという疑問が当然起きてくると思うわけですが、この本を読んで読めるようになると、仏教というものが理論的にわかるようになる。仏教というのは理論でわかるものでないという原則があるわけですが、幸か不幸か、我々は理屈がないと納得しない。現代人の特徴というのは、「いや、それは理屈じゃないよ」なんて言ったって納得しない。何とかして理屈があるはずだということで、人生のあらゆる現実を理屈で説こうという強烈な態度を持っている。

これは非常に大切な事。今日の我々の文明が偉大であると言う一つの理由は、理屈で全部説き明かそうとした努力の結果である。つまり、人間が月に行ける様になったと言う事も理屈を尊重したからの話。「世の中、理屈じゃないよ」と言っていたら、未だに月には行けない。理屈を大切にして、一所懸命勉強したから月に行けるようになった。その点では、今日の文明の基礎に理屈というものがあると言う事、これは非常に貴重な事である。

ところが、そういう時代を経た我々は、何についても理屈で解明しようと言う、いい意味でも悪い意味でも特徴を持っている。だから今日以降、仏道というものを勉強していこうとするならば、坐禅と同時に理屈が必要になってくる。「仏教は理屈じゃないよ」と言う事では、仏道を今日以降、社会に広めることはまったく不可能である。それと同時に、この「正法眼蔵」というの本の中には、理論的に仏教とはこういうものだということが書いてある。だからこの本を読んでいって、「なるほど」ということがわかってくると、理論の上でも理屈の上でも仏教というものがどういう思想で、現代においてどういう意味を持っているかということがわかってくる。

このことが今日以降においては非常に大切。理屈を大切にする世の中に我々は生きるようになったのであるから、仏教と言えども理屈を通して納得できるような形になっておらないと、教えとしては広まらない。そう言う理屈を述べておられる唯一の本が「正法眼蔵」なのである。この本は、非常に難しい本だけれども、仏教を今日以降盛んにしようと思うならば、否応なしに勉強せざるを得ない本になる。そしてまた我々も現代人である以上、やっぱり理屈でわかりたいという抑えがたい望みというものもある。そのことを満足させてくれる唯一の本がこの「正法眼蔵」と言う本にならざるを得ない。だから苦心惨憺して勉強せざるを得ないと言う事になろうかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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