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正法眼蔵 心不可得(後) 19

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。

さてここで五人の大先輩の方々を自分(道元禅師)が検討してみると、まだまだ不十分なところがある。趙州従諗禅師はこの大証国師と三耳三蔵との問答を批評して「大証国師は大耳三蔵の目と鼻の先にいたから、大耳三蔵の目には入らなかった」と言っているけれども、この説明は一体どういうことなのか。基本というものがはっきりしないうちに末端の話をすると、このような誤りが起きてしまう。基本とは何かと言うと、大証国師の質問の趣旨がどういう事だったのか、仏道がわかっているかどうかと言う質問であったのに対して、見えるとか見えないとかということだけを問題にしたから「鼻の先にいたから」と言う解説になった。

大証国師がどうして三蔵の目と鼻の先にいたと言う事があろう。なぜならば大耳三蔵はまだ目鼻さえついていないのだから、大証国師が大耳三蔵の鼻の先にいるということはあり得ない。そしてまた、大証国師と大耳三蔵とはお互いに出会った事は出会ったが、お互いに相互が理解し得る境地にはなっていなかった。大証国師と大耳三蔵の考えている事とは全然違っていた。はっきりものの見える人は、よくこの事態を理解する事が出来るであろう。

また玄沙師備禅師の答えは、「大証国師と三耳三蔵とがあまりにも近すぎたから見えなかった」と言っている。実際のところ大証国師と三耳三蔵が甚だ近かった、目と鼻の先にいたということはあったかもしれないけれども、的の真ん中を射抜いたものとはいえない。いったい玄沙師備禅師はどういうことを甚だ近いと言っているのであろうか、どういうことを甚だ近いという言葉で取り上げようとしたのか。玄沙師備禅師はまだ甚だ近いということの意味を知らないし、はなはだ近いという境地に達していない。釈尊の説かれた教えにおいては甚だ遠い。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                          --つづき

先生
毎日坐禅が続くようになると、物事はよく見えると同時に、そう悩んだり不安になったりするということはない。それが人間のあたりまえの状態。これは特別に偉くなったからそうということじゃなくて、普通はそうなんだ。人間が「オギャ」と生まれた時から、素直に悪い影響を受けないでス-ツと育っていけば、そうなってずっと仏さんみたいな一生になるわけだ。

人間の環境というのはどうもそうはいかないわけでね。いろんな悪いことを覚えるし、自分でも悪いことをするからいろいろな余分な習慣がいっぱいつく。いろんな考え方が出来て「こうやんなきゃいかん」「ああやんなきゃいかん」というようなことで、自分を無理にねじ曲げるからいろんな習慣がつく。だからそういうものからもう一度抜け出すというのが仏道修行というもの。だから仏道修行というのは本来の状態にかえること。いろいろとくっついているものがどんどん取り払われていくことだから、そういう本来の境地に戻ってしまえば、抜け出すことがむしろ難しくなるということでもある。

人間というのは本来は非常によくできたものです。非常によくできたものだけど、人間には知恵があるから、自分で運転して右へ行ったり、左へ動いて行ったりするわけですね。人間が自分で運転する能力があるということが、いろんな不幸を背負う能力があるということでもある。だから人それぞれ好き勝手なことをやることは、大いに結構なことだけれども、不幸が嫌な人は真ん中に帰るということを考えざるを得ないわけですね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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