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正法眼蔵 心不可得(後) 18

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。

総じて大証国師の体や心は、特別な神秘的な働きや、修行をして体験を得るという考え方をする人々の知る事の出来ない境地である。また大証国師の体や心は大証国師その人でもおそらくわかりはしないであろう。なぜかというと、大証国師の行動は久しい以前から、すでに仏(真実を得た人)になりたいという作為的な努力を捨てている。釈尊といえども大証国師の心境をのぞいてみることが出来なかったであろう。

※西嶋先生解説
――仏道の境地というのはこういうもの。だから我々が坐禅をやっているということは、「何のために」ということではない。ただ今日この場所に集まって、黙々と四十五分間坐ったということが、何物にも代えがたい意味を持っている。それは何のためにという風な目先にぶらついた目標ではない。ただ何物かのために、仏道をする、坐禅をするということが坐禅の本当の境地である。そういう境地は、お釈迦さん自身と言えども、はたから覗き見することはできなかったであろう――

常人が束縛され閉じ込められている境涯をはるかに逸脱しており、人々がとらえて離さぬ迷いによっても、とらえられたり影響を受けたりすることがないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                               --つづき

先生
坐禅を一日に五時間も十時間も汗水たらしてやるということはもちろんありますし、それも価値はあるけれども、その後やめてしまったら何にもならない。それだから、毎日やっていることが気持ちを落ち着けて、ずうっと気持ちの落ち着いた状態が続くということがフッと仏道とは何かということがわかってくるきっかけになる。だから、やったりやめたりという事では仏道というものはわからない。

その代わり毎日やっておれば、そう長い期間がたたないうちに、自分の落ち着いた日常生活というものに気がつくわけですよね。そうすると悩みもない、不安もない、とにかく目先のやらなきゃならんことをコツコツ、コツコツとやっていって、そう有頂天になって踊り上がって喜ぶような状態でもないけれども、不安もない、悩みもないという風な状態が続いていけば、そうしてそれから毎日やっていれば、その状態からでなくなる。そういう生活が続いていると、「あ、これかな」という感じが出てくる。それはそう長い期間はかかりませんよ。三か月なり半年なりやってれば、必ずそういうことにフッと気がつく。

そういう状況になってしまったら、途中でやめるという気がしなくなる。これは譬えは悪いけれども、人間の習慣というのは全部そういうもの。習慣がついてしまえばやめるのが嫌になる。人間の習慣というのは、ついてしまったら切り替えるのに実に骨が折れる。私も昔はタバコを吸っていたけれども、タバコを止めるのには骨を折ってやめた。習慣というものをどうやったら切り替えることが出来るかという理論を基準にしたタバコの止め方だった。タバコを吸う習慣がなくなってしまうと、今度は努力して吸わなければ始まらないわけ。習慣というのは実に面白いものです。

だからそういう点では、毎日の坐禅が続くようになると、今度はやらないと落ち着かなくなってしょうがない。やらない日は絶対なくなる。ちょっと時間の都合でどうしてもできなかった場合には、時間が出来るとすぐ慌ててやるということになる。
                               つづく--

※私の独り言。
坐禅を始めて一年たったころ、30年間吸っていたタバコをやめようと思いました。それまで「やめよう」と何回も思うのですが実行できませんでした。坐禅の勧めに「坐禅を毎日していればやりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる」とあります。「1999年9月9日タバコを止めよう!」と決めました。坐禅のおかげで実行できました。習慣を変えるということは本当に大変です。今はタバコを吸わない習慣になりました。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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