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正法眼蔵 心不可得(後) 17

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。

大証国師が試験をされた趣旨から言うならば、仮に三回目に大耳三蔵が何か答えたことがあったとしても、一回目、二回目の答と同じようなことであるならば、釈尊の説かれた教えの基本原則と言うものではない。そして大証国師が期待しておられたところではないから、やはり叱るべきである。大証国師が三回も質問したと言う事は、大耳三蔵が万一にも国師の言葉の意味を理解する事があるかもしれないという期待から、重ねて質問したのである。

※疑問を持った二つ目の理由
大証国師の体や心を五人の方々わかっていなかったということの趣旨は、ここでいっているところの大証国師の体や心というものは、大耳三蔵にはとうてい推察する事のできない境地であったしわかりようがなかった。様々な菩薩の境地の人でさえも大証国師の体や心というものはわからない。そしてもう少しで仏になる境地の人でさえ、国師の体や心というものはわからない。凡夫や大耳三蔵のような境地の人々がどうしてわかろう筈があろうかとはっきり知るべきである。

大証国師の体や心は、三蔵程度でも多分わかるだろう。そういう境地に達する事が出来るだろうと考える人は、自分自身が大証国師の境地がわかっていないからそう言う事を言うのだろう。佗心通(他人の心境がわかる特殊な能力)を具えた人々が、大証国師の境地がわかるはずだと言うならば、頭で仏教を勉強する人々と、感覚を通して仏教を勉強する人々も、大証国師の境地がわかるかどうか。

ところがそうではない。頭で仏教を勉強する人々と、感覚を通して仏教を勉強する人々は、まったく国師の端の方にさえ達する事は出来ないのである。いま、大乗仏教の経典を読む人が沢山いるが、単に経典を読んでいただけでは、大証国師の体と心がどういう心境にあったか知る事は出来ない。釈尊の説かれた教えの中における体とか心とかというものは、夢にさえ見る事が出来ないのである。仮に大乗仏教の経典を読んでいても、その大乗仏教の説く本当の境地というものが、実際の体験を通してわかっていなければ、大乗仏教が生まれる以前に盛んであった戒律を中心とした人々(小乗仏教)と同じである事をはっきり知るべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅はやっているときだけがよろしいんですか。

先生
いや。「やっているときだけか」という疑問に対しては、やはりこの「正法眼蔵」弁道話の巻の中で、道元禅師は鐘をついた時の状況にたとえておられる。それで鐘をついたときの前後に、鐘の響きというものがいんいんとして流れる。だから鐘をつくと「ゴ-ン」という音がいつまでも続いている、ずうっと続いているということを、坐禅が終わってもなお影響が残るという譬えにしておられる。

質問
先生のご体験では、それは何分ぐらい続きますか。

先生
その点では、非常に長く続くものだという風に見ていい。それはどういうことかというと、坐禅をやっているときの状態が本来の自分の状態か、それ以外の時の状態が本来の自分かということを考えてみると、坐禅の時の状態が本来の状態。人間というのは真面目もんです。ああいう静かな心境でジ-ッとしているときが一番いい時。幸福だと感じる。酒を飲んで「まあ一杯飲めよ!」なんて言うことをやっているとき、幸福だという錯覚は持つけど、本当に幸福かどうかわからん。

ところが、足を組み、手を組んで、背骨を伸ばしてジ-ッとしているときには、はたから見れば「な-んだ、あれ、ああいう時間つぶしをやって」と思うかも知らんけれども、本人の境地にしてみれば、悩みもないし悲しみもない、そう跳んではねるような喜びもない。静かな悩みのない境地、不安のない境地というものは人間が好きなんです。それはまた人間の本来の境地として意味が深い、だからそれは、自分が無理にかき回して止めるまでは続く。ところが人間はたいていそういう本来の境地というものをかき回して止めちゃうわけ。

だから私が毎日(朝晩)坐禅をやることを勧めるのは、響きがきえないうちにまたやる、響きがきえてもあんまり時間がたたないうちにまた鳴らすと、そういうことになる。これが私は坐禅をやって仏道というものが何かという事がわかる事の最大の決め手だと思う。
                           つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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