トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 心不可得(後) 16

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。

そこで大証国師が大耳三蔵を叱って言うには「この野狐の化け物め。お前は佗心通といっているけれども、一体どこにそういう能力がお前にはあるのか」と。この様に大証国師が言ったけれども、大耳三蔵はさらにどう言っていいかわからなかった。大証国師と大耳三蔵との問答をよくよく考えてみるに、五人の方々がこれにいろいろと論評をされているけれども、いずれも大証国師が大耳三蔵を叱ったことは、前の一回と二回には大証国師の心境が大耳三蔵にはわかっていたけれども、三回目はわからなかったので大証国師は大耳三蔵を叱ったというふうに考えている。

しかしそうではない。三蔵は野狐に毛が生えた程度の人物に過ぎず、釈尊の説かれた教えを夢にさえまだ見たことがないということを叱ったのである。前の二回はわかっていたけれども、三回目はわからなかったとは言わないのである。大証国師は三耳三蔵を三回ともすべての場合を叱ったのである。大証国師が考えておられたことは、まず第一に釈尊の説かれた教えの中では、佗心通(他人の心を推察することが出来る能力)があるとかないとか、そんなことを問題にしているかどうかということを考えられたのである。また仮に佗心通がどうこうという問題があったとしても、この他の人という言葉の意味も、釈尊の説かれた教えの中における意味を取り上げて問題にすべきである。

ここでという言葉が出てきているけれども、その心も釈尊の説かれた教えの基本にたって考えてみるべきである。また見抜く能力も釈尊の説かれた教えの基本にたって考えてみるべきである。そしてまた通佗心のに関連しても、釈尊の説かれた教えに立って考えてみるべきであるのに、いま大三耳三蔵が言っていることは、釈尊の説かれた教えを基準にしたものでは全くない。どうしてこんなくだらない言い分を釈尊の教えだと言う事が出来よう、と大証国師は考えたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅を初めてやった人と、何十年も続けてやっておられる先生のようなベテランと、必ずしも同じじゃないと思うんですけれど、これはどういうものでしょうか。

先生
筋肉が鍛錬されておると鍛錬されてないの違いはありますよ。だから十年、二十年やった人の背骨の筋肉と、今日始めた人の筋肉と発達状態は違いますよ。それで体の筋肉の発達の状況、神経の状況のあり方というものが、人間の日常生活、ものの考え方と密接な関係がある。

だからそういう点では、長年やっている人と短い時間やっている人との間に違いはないということは言えないけれども、今日始めてやった人の坐禅でも、真ん中にいることは間違いない。だから長年やって筋肉が発達してどうこうというふうな違いはあるけれども、一所懸命にやっているときの状況というものは、筋肉が発達していようと発達していまいと、弱い筋肉を大いに叱咤激励してきちっとしているだけだから、その点では、長年やった人と今日初めてやった人と価値において変わりはない。道元禅師が「初心の弁道、本証の全体なり」ということを「弁道話」の巻の中で言っておられるのは、そのことであって、初心者の今日の坐禅といえども、仏教の体験のすべてが含まれておるということです。


読んでいただきありがとうございます。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-