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正法眼蔵 心不可得(後) 15

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます。

いま自分(道元禅師)は五人の大先輩に対して疑問を持つ点が二つある。一つは、大証国師が大耳三蔵を試したところの趣旨というものを、この五人の方々はわかっていないということである。もう一つの問題は、大証国師の持っておられた体、心というものが一体どういう実体のものかということを、この五人の方々はわかっていないということである。

※疑問をもった一つ目の理由
最初に大証国師が「お前、言ってみよ。わしは今どこにいるか」と質問された。この大証国師の質問がどういう言葉かというと、大耳三蔵が釈尊の教えを知っているかどうかということを質問されたのである。大耳三蔵がもし釈尊の教えをかつて聞いた事があるのであれば「お前、言ってみよ。わしは今どこにいるか」と言う言葉も釈尊の教えに即して聞くべきである。

「お前、言ってみよ。わしは今どこにいるか」を、釈尊の教えに即して聞くと言う事は、大証国師が「わしは今どこにいるか」という質問の意味は、「この辺にいるか、あの辺にいるか、釈尊の説かれた最高の境地にいるのか、正しい智慧の過程にいるのか、空間に留まっているのか、大地に立っているのか、粗末な庵にいるのか、究極至福の境涯にいるのか」と質問しているのである。ところが、大耳三蔵はこの大証国師の質問の意味がわからずに、仏教と無関係な人、あるいは仏教を概念なり感覚で勉強しようとしている人々の考え方をもって答えた。

そこで大証国師がもう一度「お前言ってみよ。私は今どこにいるか」と質問された。ところが大耳三蔵は大証国師の質問の本当の意味が依然として分からないので見当はずれの言葉をもって答えた。大証国師がさらに重ねてもう一度、「お前言ってみよ。わしは今どこにいるか」と質問した。ところが三耳三蔵はしばらくの間黙っていたけれども、何もしゃべることが出来ず范然としてしまって、どうしていいかわからなかった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今日のところで言いますと、大証国師の境地を大耳三蔵は知らなかったということですね。そうすると、それを「心不可得」に当てはめてみると、やっぱり国師の仏教的に出来上がっている心境というものを問題にしていらっしゃいますね。

先生
ええ。

質問
そうすると、心はつかまえられるものではないという事と、今日の話とは別でございますね。

先生
いや。大証国師の心・体がなぜとらえられないかというと、我々が生きている現実の世界においては、心とか体とかというものを頭脳の働きでとらえることはできないという大原則がある。だから大証国師はその境地で物事を話しておられるわけです。

そのことは大耳三蔵は佗心通(他人の考えている事を推察し得る能力)があるというふうなことを言っておるけれども、大証国師の仏道から理解した立場にはそんな事のあるはずがない。だから他人の心境がわかるとかわからんとかと言う問題以外に大耳三蔵が仏道をはっきり理解していたかどうかということが問題だ。仏道の究極においては心というものは頭でとらえようとしてもわかるものではないという事であって、その事に関する返事が聞きたかったんだけれども、さっぱりその返事が出てこなかった。

それからまた五人の方々も、いろいろと論評はしておられるけれども、大証国師が聞きたかった事というのは「心不可得」ということであったということ。そのことには少しも触れないで、見たとか見ないとかと言っておるから、つまり最初の二回は見たけれども、最後は見なかったというようなことを言っておるから、どうも大証国師の問題にしておられたところからはるかにずれているという事を言っておられる。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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