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正法眼蔵 心不可得(後) 13

大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。

インド出身の僧侶であっても、論師(経典に関するいろいろな議論)だけをしてきた師匠、あるいは経典を中心に勉強してきた人々は決して大証国師の実践的な仏道によって得た境地というものを知ることは出来ない。仮に経典を通じて勉強してきた程度の人々の知っているところであるならば、経典の論議に関してやかましい議論を闘わしている師匠たちも知っているであろう。

このように論議を中心とした師匠程度の事であるならば、現在の状態では仏(真実を得た人)そのものにはなっていないけれども、近い将来に仏(真実を得た人)となるべき真実を探求している人がこの三蔵の知る程度の事に達しないことがあろうか。また十聖とか三賢とか言われる菩薩の人々も、どうして論師が知る程度の事を知らないはずがあろう。

大証国師の境地は坐禅をして仏の境地に入った状態であるから、大証国師の体、あるいは大証国師の心というものは、近い将来真実を得る知力がある人であろうと知ることは出来ないでのある。仏教においては体、あるいは心についての状態を論ずる場合はこのように論ずるのである。この事を承知しておかなければならないし、またこの事を信じなければならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                                --つづき

質問
良寛和尚の言葉で「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」とありますね。

先生
そう、そう。

質問
心というものは、つかめたりわかったりするものではないとおっしゃったんですけど、そうしますとよく禅家でいう「以心伝心」というのはどのように考えたらよろしいんでしょうか。

先生
「以心伝心」というものも、心があって、それが伝わるということではなくて、ただここに人間があって、足が二本、手が二本、頭が一つ、目が二つという形の実体がAとBと二つあり、それでAの体・心の状態も、Bの体・心の状態も、同じ状態になるということはありうる。同じ状態になったということは、AはBの人の気持ちがわかったし、BはAの人の気持ちが分かったということになるわけ。そういう状態が「以心伝心」ということである。

だから心というものは、つかめようとつかめまいとそういうものではなしに、同じ状態になるかならんかという事が問題になるわけです。釈尊は釈尊としての体の状態、心の状態があったんだし、それと同じ体の状態、心の状態を我々は経験できるんだし、そういう経験をした時に、釈尊の気持ちが分かった、心が分かったという事になる。そういう関係ですよね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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