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正法眼蔵 心不可得(後) 12

大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。

また大証国師がおられる場所がわかるはずがないという理由も明白である。大耳三蔵は大証国師から「今、自分はどこにいるか」と言う質問を三回も受けておりながら、この質問の言葉を本当の意味では聞いていなかった。だから大証国師が一体どういう質問をしているかという意味さえ分からなかった。もし大証国師の言葉の意味がわかったならば、大耳三蔵がおそらく質問をし返しただろう。ところが大証国師の質問の意味がわからなかったから、重ねて問い返すと言う事もせずそのまま過ごしてしまったのである。

もし大耳三蔵が仮にも釈尊の説かれた教えである坐禅の修行をしていたならば、自分自身の本源に帰っているから、そういう境地の経験によって大証国師の心境が分かったはずである。ところが大耳三蔵は常日頃から坐禅をやって仏道の説く宇宙の秩序を勉強していなかった。立派な指導者である大証国師と同じ時代に生まれ合わせておりながら、ただ無駄に過ごしてしまったのである。非常に哀れな事であり悲しい事である。三蔵だけを中心に仏道を勉強している人々が、どうして実践を通して仏道を勉強している人々に及ぶ事が出来るであろう。大証国師の境地のほんの端の方さえ知ることがどうして出来るであろう。

※西嶋先生解説
――三蔵というのは経典の意味であるけれども、なぜ三蔵というかというと経典には三種類あって律蔵と経蔵と論蔵がある。律蔵というのは戒律を書いた経典、経蔵というのは釈尊や釈尊の弟子のさまざまの業績を書いた経典、論蔵というのは、経典に関するい
ろいろな議論を述べた経典、この三種類の経典を三蔵という。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―          
                               --つづき

質問
まず健康ですか。
先生
そう、健康ということもやっぱり必要ですよね。健康でない状態だとやっぱり充実した生活と言うのもなかなか難しいですわな。思想的にはよく「肉体は弱いんだけれども、精神は・・・」というようなことを言うけれど、仏教ではそういうことを言わない。「体が弱いと心も弱い」ということを言うわけです。だから心をしっかりさせたいと思ったらば、健康でなきゃならんということも言うわけですよね。

そして「健康、健康」と言って気にしている人に対しては、道元禅師はまた逆なことも言われる。「四大五蘊の身、誰か病なからん」という言葉もある。病というのは病気ですよね。四大というのは地・水・火・風、それから五蘊というのは色・受・想・識、だから客観的な実体です。そういうものの寄せ集まりで出来ている体なんだから、病気のない人なんてどこにもいやせんと言うことでもある。だから「健康が大切、健康が大切」と言ってオロオロしていると、「四大五蘊の身、誰か病なからん」と、こう言われるわけだ。それじゃ体を粗末にしていいかというと、それもまた間違いだという教えが出てくるわけでね。これは両方真実なんですよね。体を大切にしなきゃならんというのも真実だし、体だ体だと気にしてばかりいてもしようがないよというのも真実なんです。

我々の現実の生活というのは、非常に矛盾に満ちたものです。だからそういう矛盾に満ちたもんだということが分かってくると、現実がわかる、実体がわかる。ところが一方だけの、一方通行の理論だけで、「世の中はこうなければならん」という風なことを考えておると、実体というのは中々つかめない。そういう形で実態がつかめてくると、日常生活に味が出てくるし、面白くなってくる。一筋縄ではいかんというところがわかってくる。ただ大抵は一筋縄で収まるもんと思っているから、「俺の考え通りにいかんからけしからん」というようなことで世間ばかり恨んでいるけれども、そうはいかない、実に複雑なものです。
                      つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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