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正法眼蔵 心不可得(後) 10

大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊の説かれた教えの中で心というものをどう勉強するかというと、心というものが我々の体の中に個々に入っているということではなくて、この世界全体というものがあればこそ心というものがある。この我々の住んでいる世界を他にして心というものが別にあるわけではない。心と言ってみても、それが人によって言葉によって説明されるというものではなくて、宇宙全体が心に他ならないということであろうし、この生身の自分自身もまた心であろうということにもなる。

※西嶋先生解説
――真実を得た人は他におられるということではなくて、自分自身も例えば坐禅をした状態で足を組み、手を組み、背骨を伸ばしておる場合には、二千数百年前に釈尊が足を組み、手を組み、背骨を伸ばした体の形とまったく違わないわけであるから、そういう状態に体を置くならば、心もまた釈尊と同じ心になるという意味で、坐禅をしておる各人がまさに仏であり、その体全体がすなわち心というものの実態である。だから仏道においては、体と心とを別々に分けて説明するということは決してない。体が心であり、心が体であるというとらえ方をする。――

したがって自分自身を問題にするならば、自分の体そのものが心である。そして外界の世界を問題にするならば、その宇宙全体が心というものに他ならない。釈尊の教えにおける心というものを間違えてはならない。抽象的に各人の中に入り込んでいるものだと理解してはならない。



          ―西嶋先生の話―

「般若心経」について、今日いろいろな解釈がたくさんの人によって書かれております。仏教を勉強する場合、普通は経典を読んで色々な注釈書を読んで経典の意味がわかれば仏道がわかるはずだと一所懸命勉強しているわけです。しかし、それは言葉の上での説明であって仏道とはそういう理屈ではない。

達磨大師がインドから中国に坐禅を伝えた時には、すでに「般若心経」などたくさんの経典はインドから中国に伝わっていた。しかし、達磨大師がインドから中国に坐禅を伝えた事によって初めて釈尊の教えが理解出来るようになった。このように道元禅師は考え、釈尊の教えは坐禅の中に入っていると言われた。だから経典に対する理解の仕方についても、道元禅師は独特の考え方をしておられた。

今日、情報は非常に多くあるわけです。その情報のどれが正しくてどれが誤っているかを捉える立場というものがどうしても必要になる。そういう点で道元禅師は、頭の中に文字や知識を詰め込むことが我々の本当の理解に役立つのではない。足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしている状態そのものから本当のものが生まれてくる。「般若心経」の一々の意味というものを解釈するよりも、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしている瞬間を持つ方が仏道を身につける一番の早道だ。このように道元禅師は述べられた。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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