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正法眼蔵 心不可得(後) 9

大証国師と大耳三蔵との問答について道元禅師が注釈されます。

このような大証国師と大耳三蔵との間の説話は、話として知っていなければ具合が悪いし、聞いていなければこの話を聞いた時にどう理解したらいいのか見当がつかず困るであろう。釈尊の教えをしっかりと坐禅を通して身につけた人と、経典だけを勉強して理屈の上だけで仏道を勉強した人とでは同じであるはずがない。天と地ほどの開きがある。坐禅を通して仏道をしっかりと身に付けた人は宇宙が一体どういう原理で出来あがって、どういう実情を示しているかと言う事がはっきわかっている。

しかしながら、仏教経典だけを勉強して理屈の上で仏教を勉強ている人々は、この宇宙の実体がまだわかっていない。仏教経典を勉強している人々は、経典を勉強したという点では出家をした人も在家の人もあまり変わりはない。在家のままで経典を勉強したとしても、他の書籍を読んで学問したのと同じようなそれなりの力がつくものである。このように経典の意味がわかる事と仏道の本当の実体がわかる事とは別である。

大耳三蔵の様にひろくインドや中国の言葉を解明し、仮に他人の気持ちを見抜く能力を得たからと言って、釈尊が説かれた教えを単なる理屈ではなしに実践として日常生活を通して仏道をつかんだ心・体を通して考えてみるならば、仏道における本当の意味での心・体というものはまだ夢にさえ見たことがないのであるから、仏道の真実を体験を通してつかんでこられた大証国師のような人にお会いした場合には、たちまち見破られてしまうのである。



          ―西嶋先生の話―                
                       --つづき

滅諦 
仕事とは理屈ではなく実際にやる事。ああすればいい、こうすればいいと頭の中で考えているだけでは仕事にならない。実際に手を下して、汗水たらしてやってみなければならない。仕事というのは実際にやる事。そのことが大きな意味を持っているわけです。また、実際に仕事をやってみると理論とは違う。理論とはちがう実際の仕事を少しずつ身に付ける事が、さらに仕事を発展させていく上での非常に大きな要素になるという事が言えると思います。
  
道諦
自分の仕事がどういう意味で社会に寄与するかと言う事。この世の中における仕事はどんな仕事でも、必ず何らかの形で社会的な意味を持っている。どんな仕事も、その仕事の種類いかんにかかわらずそれが必ず社会に寄与する。そういう関係なのでその仕事に真剣に取り組んでいく。こういう意味で、自分自身の仕事をやるという事と仏道修行は全く同じです。

一つの例として道元禅師が中国に行かれた時の話です。

ある夏の日照りの日に、炎天下で僧侶が岩ゴケを干していた。それを干して僧侶の食事に使うために汗をダラダラ流して干していた。道元禅師はその年寄りの仕事ぶりを見て大変だと思ったので声をかけた。「おいくつになりました」と聞いたところ、六十幾つだという。道元禅師は「そういう大変な仕事はもっと若い人にやらせたらどうですか」と言った。僧侶は「他の人にやらせたのでは、自分の仕事にならん」と返事をされた。つまり、仕事は自分自身でやってこそ意味がある。人に任せて「はい、お願いします」といっていたのでは仏道修行にならない。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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