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正法眼蔵 心不可得(後) 8

大証国師が唐の皇帝の師匠をしていた時期に、大耳三蔵と言う僧が遠くインドから洛陽の都にやってきた。大耳三蔵は「自分は修行の結果、佗心通(他人の気持ちを見抜くことが出来る能力)を持っている」と自慢していた。そこで唐の粛宗皇帝は大証国師に命じて大耳三蔵が佗心通を持っているかどうか試験をさせたところが、大耳三蔵は大証国師をちらっと見るや、早々に礼拝して大証国師の右側に立った。

そこで大耳三蔵に大証国師問う:お前は佗心通を得て他人の心を読み取る力があると聞いているが、本当にそういう能力を持っているのかどうか。

大耳三蔵言う:さあどうでしょうか。

大証国師問う:もしお前が他人の気持ちを見抜く能力があるならば、わしは今どこにいるか、それを言ってみろ。

大耳三蔵言う:和尚は国のすべての僧侶から尊敬されておる師匠でありながら、なぜ西の方の川に行って船の競争などをご覧になっているのですか。

そこでまたしばらく時間をおいてから、大証国師もう一度問う: お前は返事をすべきである。わしは今どこにおるか。       

大耳三蔵言う:和尚はまさに一国の師でありながらなぜ洛陽の天津橋の上で、人が猿をおもちゃにしているのを眺めておられるのですか。
      
さらに大証国師問う:お前言ってみよ、わしは今どこにいるか。

大耳三蔵はしばらく黙っていたけれども、どこに大証国師がいるか、その姿を見ることはできなかった。

そこで大証国師が大耳三蔵を叱って言う:この野狐の化け物のようないい加減な男よ、お前が他人の心を見抜く能力があると言っているその能力は一体どこにあるのだ。

大耳三蔵はそれに対して何も答える事ができなかった。



           ―西嶋先生の話―

「仏道が一体何の役にたつんだ」と言う問題もあろうかと思います。仏道の勉強と日常生活との関係で考えて見ます。我々の一日の割り当て時間は二十四時間。睡眠もとります、食事もします、風呂にも入りますと言う事で、我々が実際に何かに使える時間は割合少ない。社会生活で仕事を持って働くと言う場面もあります。普通その時間を持って働く時間は八時間労働と言われる。そうすると、人生のうちの非常に多くの部分は働くという時間にとられている。だから、その働くという時間を疎かにすると、我々の人生というものは意味のないものになってしまう。

仏道修行というと何か世間の仕事と別の問題で、浮世離れしたもの、仕事は俗事、仏教とは関係ないと思われがちです。本当の意味での仏道というのは、我々の日常生活における仕事というものを度外視してはありえません。仕事を一所懸命に手がけるということが、仏道修行の大切な部分と言う事にならざるを得ない。仕事に取り組み場合にも仏教的には四段階で考えます。

苦諦 
やる気を起こす。仕事はつらい、仕方なくやるんだという考え方もあるかもしれないが、仕事そのものが我々の人生そのものです。働く事と自分達が生きる事は、まったく同じ意味だと考えて間違いない。仕事は自分のためとか、人のためとかという理屈ではない。自分のやるべき仕事が目の前にあるからやるに過ぎない、と言う考え方も出来るかと思う。何らかのためにするというのが仕事ではなくて、仕事そのものをやる事に意味があると言う考え方で取り組むべきではなかろうかという気がするわけです。

集諦
仕事に関する知識を持つ。今日、仕事のやり方についての本がたくさん出版されている。そういう本を読んでためになる場合もある。また、かえって迷いをおこす場合もある。自分が実際に仕事をしてみて、この本には本当のことが書いてある、この本にはでたらめが書いてあると言う見分けがつけるだけでもかなりの勉強になる。単に仕事の本を読むだけではなしに、先輩の意見を聞くということも大切な事です。周りの人の話を聞くということが仕事の上で非常に役に立つ。
                  つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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