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正法眼蔵 心不可得(後) 7

道元禅師の注釈は続きます。

過去・現在・未来において真実を得られたたくさんの方々が、いずれもこれは言葉や理屈ではつかまえることが出来ないものだということを体験することによって断言された。真実を得られた人の心と言ってみても、垣根、壁、小石であると言うだけの事でしかない。仏道の真実を得られた方々は、過去においても、現在においても、未来においても、釈尊の心と言うものは理屈や言葉ではつかまえることのできないものだと言う事を体験してこられた。
 
※西嶋先生解説 
――我々がなぜ坐禅をするかと言うと、心というものは言葉でつかまえられないから、足を組み、手を組み、背筋を伸ばして 自分の体を仏の状態に置くことによって、初めてその体全体に現れてくるものが心。だからそれは、そういう行動の中でしか現実の中でしかつかまえることがで出来ない。言葉ではつかまえないものということになるわけであります。――

単に、仏心であるとか、垣根であるとか、壁であるとか、瓦であるとか、小石とであるとかというものだけではなしに、山や川や大地というものも、それをどういう言葉で表現しようかとするならば、「つかまえることが出来ない」と言う言葉で表現できる。山も川も大地もつかまえることができない。それでは無いかと言えば、明々白々として我々の周囲に現存している。それが現実、それが我々が生きている世界なのである。草や木、あるいは風、あるいは水といったものが、とらえることのできない状態にあると言う事、それが心と言うものの存在を示す唯一の証である。

また人生というものは、不安定なもので何処にとどまるというふうなのんきなものではない。次から次へとクルクル変わってどんどん時間というものは経っていく。しかもその過程において仏道を学びたいという気持ちも起きる。あるいは坐禅をしてみたいという気持ちも起こる。坐禅をしてみればそれだけの心境が生まれるということがある。そういう事態を言葉で表現しようとしてもそれはできない。また、あらゆる方角におられる沢山の真実を得られた全ての方々が、様々な説き方によって様々な仏教の教えを説かれるけれども、その究極というものは、「とらえることができない」と言う事を本質とした「心」と言うものを説かれるのである。その説き方は徳山禅師と老婆とのあいだの問答を通して説明してきた通りの主張に他ならない。



          ―西嶋先生の話―
                        ‐-つづき

我々は案外やってもやらなくてもいい事を夢中になってやる。そしてどうしても必要なことについてはあまり熱心でない。ご飯を一所懸命食べるなんて人はそういない。あるいは夜一所懸命に寝るという人もそういない。そういう事はどうでもいいと思っている。そうしてそれ以外の事の方がより大切というふうな考え方が世間ではいくらでもある。ただ坐禅をやっておって本源的なものに戻って行った状態というものを経験すると、本当にやらなければならん事と、やってもやらなくてもどうでもいい事のけじめが分かれてくる。そうすると常にやらなきゃならないことが目の前にぶら下がっておる。だから坐禅をやっている人というのは暇ではない。絶えず何かやってなきゃならんということが次から次へと出てくる。

「さあ今度は本読まなきゃならん」「さあ今度は英語の勉強をしなきゃならん」「さあ今度はあのテレビの番組を見なきゃならん」というようなことで、次から次へとやらなきゃならないことがはっきりしている。ところが本源に帰った状態というものを経験していないと、何をやったらいいんだかわからない。「私は誰でしょう」というようなことで、人の様子を見て人のマネをしているしか能のない人というのは世の中にいくらでもいる。

そういう点では、我々が本来の自分にかえるという事、これはかなり大切なこと。坐禅によって何をやるかと言えば、本来の自分にかえる、一番本源的な状態を味わって、自分というものが何をしなきゃならんかということを最も無理のない形でつかむという事、これが坐禅をやることの狙いであるし、仏道修行というものはそういう事でしかないということも言えようかと思う。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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