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正法眼蔵 心不可得(後) 6

道元禅師の注釈は続きます。

「過去の心をつかまえる事が出来ないということはどういう意味でしょうか」と質問されたならば「我々の日々の生き死にだ」と返事をすればいい。「現在の心もつかまえる事が出来ないといわれていますが、その意味はどういうことでしょうか」と質問されたならば「日常生活そのものの事を言ってるのだ」と返事をすればいい。「未来の心はつかまえる事が出来ないという言葉の意味はどういう意味でしょうか」と質問されたならば「我々の日常生活そのものだ」と返事をすればいい。

我々は自分の中に心があると普通考えている。常識的には誰もそう考えている。そして、自分の中に心があるから、垣根が見える、壁が見える、瓦がみえる、柱が見える、人が見えると考えている。誰もが心はあるもの、心が外界のものを見ているという理解の仕方を持っている。ただ実体をよくよく見るならば、心が別にあるのではなくて、そこに垣根がある、瓦がある、小石があると言う事実そのものが心があるという事の唯一の裏付けであり、垣根とか、壁とか、小石とかを別にして別に心があるわけではない。現に机がある、現に柱がある、現に壁があるという事が、心をもっているという事実と全く同一の事実なのである。

※西嶋先生解説
――だから心と他のものとを別々にみる考え方というのは、仏教的な考え方ではない。普通はそういう考え方をするけれども、西洋哲学では主観と客観という二つのものを持ってきて、主観がどう、客観がどうということで論議をするわけだけれども、釈尊の教えというものはあくまでも現実の教えである。現実とはマッチ棒とマッチ箱との関係。箱と棒をこすり合わせて出てきた火そのものが現実、我々の日常生活。だから箱だけで現実の生活があるわけでもないし、マッチ棒だけで現実の生活があるということでもない。人間が一所懸命働いていくことによって日常生活があるということ。そういうことを垣根や壁や小石がそのまま心だという状態があると表現したのである。――



         ―西嶋先生の話―

我々は自分自身というものが本来はどういう人間で、どういうことをやっているのかという事もよくわからないで、ただ忙しい、忙しいと駆けずり回っているわけだけれども、坐禅の形で本当の自分というものをつかまえると、自分が本当にやらなければならない事と、やらなくてもどっちでもいい事とのけじめがついてくる。我々は普段やってもやらなくてもどうでもいいような事を一所懸命になってやっているという事がかなり多い。

ところが坐禅をやって本来の自分に戻ってみると、どうしてもやらなければならん事と、やらんでもやってもどっちでもいい事というのが分かれてくる。どうしてもやらなければならない事として残るものは何かというと、一つは生命の維持。たとえば食事をするとか、服を着るとか、体を洗うとか、顔を洗うとか、こういう日常生活におけるどうしてもやらなければならん仕事というのは、生命の維持のために絶対に必要な事である。

ところが、生命を何のために維持するかというと働くために生命を維持する。せっかく命があっても、何にもする事がなくて遊び暮らしておったんでは生きている甲斐がない。だからそこで本を読む、勉強する、坐禅をする、あるいは社会生活の仕事をするというふうなことで、何らかの形で働くということも非常に大切なことである。だから我々の人生の中でどうしてもやらなければならない事の一つは生命の維持、それからもう一つは維持された生命でどう働くかという仕事の問題。この二つが人生にとって非常に貴重な事、ということが言えると思う。

ところが我々はそれ以外のことにかなり時間を使い熱心でもあるわけであって、夏になると旅行に行かなきゃならんと思っている人がいる。私などはここ何十年間、夏の旅行なんて言うのはあんまりした事がない。ただ世間では必ずしもそうではなくて、「どこに行きましたか」「どこへ行ってきました」というふうな事が、夏会った場合の挨拶の代わりに使われる。

旅行などというものは、行っても行かなくてもそう大した問題ではない。生命を維持するとか、仕事をするとかということは絶対にやらなきゃならんことだけれども、旅行にしても、あるいは芝居を見に行くということにしても、行くこと自体は結構かもしれないけれども、どうしても人間がやらなきゃならん事とは別である。ところが我々は案外やってもやらなくてもいいことを夢中になってやる。そしてどうしても必要なことについてはあまり熱心でない。
                               つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
555:ありがとうございます。 by 聞者・釋真聴 on 2016/05/27 at 11:01:42

平成5年から、カウンセリング研究会【くりのみ】という小さな学習会を主宰している鈴木と言います。西嶋和夫先生には、10年以上、当会で『正法眼蔵』の提唱と坐禅の指導をしていただきました。いつも、老師からいただいたご本を開いていますが、パソコン向かう時は、幽村芳春さんの『坐禅と暮らし』を拝見させていただいています。ありがとうございます。くりのみ会では、岩波文庫をテキストにして「正法眼蔵」の音読と坐禅をしていますが、現在は、「行佛威儀」です。更新を楽しみにしています。「自分の部屋で密やかに坐禅を始めてみませんか。」の呼びかけの言葉、素敵ですネ。

556:Re: ありがとうございます。 by 幽村芳春 on 2016/05/27 at 12:26:03

鈴木さんコメントありがとうございます。

西嶋先生は亡くなられましたが、幸いにも先生が「正法眼蔵提唱録」を残してくださいましたので、これを頼りに道元禅師の「正法眼蔵」を勉強することが出来ます。
それから「自分の部屋で密やかに坐禅を始めてみませんか」に対する感想の言葉ありがとうございます。これからもまだまだこのブログは続きますので宜しくお願いします。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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