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正法眼蔵 心不可得(後) 4

道元禅師の注釈は続きます。

この徳山禅師と老婆との間の話を考えてみるに、徳山禅師がかつて真実を解明していなかったと言う事は、今この説話を読んでみることによってハッキリわかるところである。しかしながら、このとき老婆が徳山禅師をして何も言えないようにしたからといって老婆が本当に真実を得た人かどうかと言う事はまだ断定できない。自分(道元禅師)がこの老婆の気持ちを推察してみると、とりあえず心不可得(心はつかまえる事が出来ない)という言葉を聞いて、「心というものは実際にはない」とのみ考え、このような質問をしたのであろう。

徳山禅師が一人前の人間であったならば、老婆の質問を検討した上でそれなりの返答をしたであろう。そして徳山禅師がそれなりの返事をすれば、それに応じてまた老婆が何かを言ったであろうから、そこで老婆が本物かどうかということが分かったであろう。この老婆との問答をした時期においては、まだ徳山禅師が自分自身というものがよくわかっていなかったので、老婆が真実を得た人であるかどうかということもわからずそのことを知る由もないのである。

また老婆がはたして本物であったかどうかということを疑問に思うことについては、それだけの理由がないわけではない。徳山禅師が何もいえなかった時に、どうして老婆は徳山禅師に何も言わなかったのであろう。「和尚、いま私に対して返事が出来なかったけれども、それではこの私に質問をしてみなさい。そうしたならば私が和尚のために返事をしてあげましょう」と言うべきであった。この様な形で徳山禅師に対して本当の意味の言葉を口にする事が出来たならば、老婆は本物の力量であったとハッキリしたであろう。

古仏(過去ににおける仏道の真実を体験された方々)の真髄やあり方、光輝き、片鱗なりというものは、二人以上が同時に同じ境地に立つと言う努力があって始めて知られるところである。徳山禅師と老婆とが同じ境地に立ったならば、徳山禅師も老婆も不可得(得ることができない)と言う言葉についても、可得(得ることができる)と言う言葉についても、「餅」についても、何の苦労もなくつかまえる事が出来たであるう。そればかりでなく、それらを手放す事についても何の苦労もなかったであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は安楽の法門だという風に考えますと、いろいろクヨクヨすることないと思いますね。

先生
そうそう、そうですよ。ただ考えまいとしてもどうしても考えちゃう。だから考えまい考えまいとして考えて苦労するということもあるわけです。そこで坐禅が出てくる。足を組んで、手を組んで背骨を伸ばしていれば、考えようとしても考えられないということが救いなわけですね。坐禅の救いというのはそれですよ。

「こんなふうにぼんやりして、時間をつぶしてもったいない」という風に考える人もあって「あんなの時間つぶしだからやめてておこう」という人もあるけれども、人間は大体考えすぎるのです。朝から晩まで一所懸命考えている。だからたまには考えない時間があって初めて現実が見えるわけですよ。考えない時間がないと考えに引きずり回されて、いつまでたっても現実が見れない。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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