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正法眼蔵 心不可得(前) 8

道元禅師の説示は続きます。

哀れなことではないか。徳山禅師も、老婆も、過去の心も未来の心も、質問も、それに対する返答も、ただただ五里霧中の状態になってしまっている。 徳山禅師はそれから後も、大した解明をしたとも見えない。ただ荒々しい様々な出来事、落ち着きのない日常生活というものがあったに過ぎない。長い間、竜澤の崇信禅師のもとで修行をしていたならば、頭に生えている得意の角が折れて本当の人間になりえた時もあったかもしれない。あるいは竜の顎の下にあるとされている貴重な真珠の玉を正しく受け取るという時期もあったかもしれない。

しかし崇信禅師のもとを短期間で立ち去ったために、崇信禅師と徳山禅師の間には「紙燭吹滅」程度の説話しか伝わっていない。 これでは、仏教の説く正しい宇宙の秩序を継承したと認めるには不足である。この様な事例から見ても仏道を勉強する人々は一所懸命に学ばなければならない。安易にやっていたのでは決して妥当な所には行かない。しかしながら、一生懸命やった人々は、かならず真実を得た人になっている。総じて言えば心不可得(心はとらえる事ができない)と言う事の実体は、「画にかいた餅を買って、それ を一口にほおばり噛み砕いて呑んでしまう」と言う事である。

※西嶋先生解説  
――画餅(画にかいた餅)と言うのは、抽象的な言葉を表現しているのであるが、そういう抽象的なものを乗り越えて、現実の実生活に徹するということが、心不可得の意味である。だから、心というものが得られるとか、得られないとか、小理屈を言っても始まらん話で、そういうものを乗り越えるところに本当の仏道があるということを説かれているわけであります。――

              「正法眼蔵心不可得」
              1241年 夏安居の日
              観音導利興聖宝林寺のおいて衆僧に説示した。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お尋ねします。「徳山禅師この時初めて画にかいた餅は腹の足しにならないものだ」とございますね。それから本文のお終いでございますが、「心不可得とは、画にかいた餅を買って、それ を一口にほおばり噛み砕いて呑んでしまう」というところを思い合わせますと、なんか矛盾があるように私自身は感じるんですが・・・。

先生
ですから、それは立場がまた一つ上へ上がってるんですね。というのは普通の常識的な考え方ですと、まず画にかいた餅は腹の足しにはならんというのがやや進んだ立場として出てくる。最初は、画に描いた餅でも腹の足しになると思っているのが普通の一番最初の考え方。ところが腹の足しにならんということに気が付くというのは、ちょっと進んだ段階です。そしてこの一番最後のところに書いてあるのは、画にかいた餅というのは普通は食べられないもの、それを食べてしまうということが最終の境地だということです。

これはどういうことを言っているかというと、画にかいた餅というものが問題なのではなくて、餅を食べて腹をいっぱいにすることが大事なんだと、現実的な問題なんだ、そういう抽象的なものを全部乗り超えて現実に触れろというのが、この一番最後のところでの主張ですよ。だから画にかいた餅が腹の足しにならんということよりもさらに上に行って、画にかいた餅そのものも問題にならない、もっと現実に触れる、一番最後のものに触れるというのが「画にかいた餅を買って、それ を一口にほおばり噛み砕いて呑んでしまう」という表現で言わんとしたことです。

この一番最後のところで言わんとしたことは何かといえば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておること、そのことを画にかいた餅を買って、むしゃむしゃと食べてしまうことだと、そういう表現で言われたということになる。ですから最初のところの画餅と最後のところの画餅とは矛盾しております。道元禅師も矛盾していることを承知して、最初の立場よりもさらに一段進んだ立場があるぞ、ということを言っておられるわけです。


読んでいただきありがとうございます。





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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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