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正法眼蔵 心不可得(前) 6

道元禅師の説示は続きます。

ではここで、私(道元が)が試しに二人に代わって言うべき言葉を言って見せよう。まず徳山禅師は老婆の質問に対して「そのような事を言うならば、お前は私に餅を売らんでもよろしい」と。この程度のことを、もし徳山禅師が言う事が出来たならば、かなり出来た人と言う事が出来よう。

そしてまた、老婆に対して徳山禅師が次のような質問をするかもしれない。「過去・現在・未来のいずれの時間においても、心というものをつかむことはできないが、いま餅を食べて、それによって心というものをはっきりさせようとするならば、どの心をハッキリさせようとするのか」と。徳山禅師がこのように質問された場合に、老婆はすぐさま徳山禅師に対して言うべきである。 「和尚は餅が何らかの心をハッキリさせる事はできないということだけはわかっているけれども、心があって初めて餅の意味があるということがわかっていないし、心もまた独自の存在であって、餅のご厄介にならないという事情が分かっていない」と。

※西嶋先生解説
――ここで道元禅師が老婆の言葉として述べている言葉が、仏道、仏教の考え方の一つの典型的な捉え方を示しておる。そのことはどういうことかというと、餅が心をはっきりさせるというけれども、その心がどこにあるか分からないのが我々の日常生活の現実である。けれども、この様な考え方が我々の常識的な世界における考え方ではなく、通常は餅というものと心というものと二つのものを持ってきて、餅を食べることによって心がはっきりするという考え方を常識的にはしている。

だが少し突っ込んで見ると、その様な心があるかどうかわからないということが言えるわけであって、さらに進んでくると我々の心というものがあって、餅も我々の心があればこそ意味を持ってくる。我々の心があればこそ、餅というものが心をはっきりさせる材料として役立つという関係でもあるし、さらに心というものは餅があろうと独自の存在としてはっきりしているという事情もまた現実の生活の中にある。この事はどういうことを言っているかというと、餅と心というものと二つ並べて、その関係だけを問題に論ずるということが普通の我々の考え方であるけれども、もっと突っ込んで考えてみれば、餅は餅、心は心、それぞれが独立の存在で、現実に疑うことのできない実在としてこの世の中にあるということが仏教の捉え方である。

心とか我とかというものがあるとかないとかと言ってみても、それは所詮は理屈に過ぎないのであって、ただそういう言葉を乗り越えて現実の実体というものに触れてくると、言葉があろうとなかろうと、実体そのものが疑うことのできない実在としてあるということが感じ取れる。そのことが仏道の世界なのである。そのことを表現する意味で、心があって初めて餅の意味があるということがわかっていないし、心もまた独自の存在であって餅のご厄介にならないという事情が分かっていないと言う表現をされた。――

この様に老婆が言った場合に、徳山禅師はおそらく疑問を起こすであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
ここに「正師」という言葉が出ていて、これは正しいことを教える師匠という意味でしょうが、「良師」という言葉はお使いにならないんですか。

先生
仏道というのは善悪とか、良とか悪とか、そういう考え方よりも「正しいか、正しくないか」ということを問題にする教えだということは言えるかもしれませんね。そのことはどういうことかと言うと、正しいということは、そのタイミングがいいとか、周囲の状況にあっているとかという風な事も問題になるわけです。

良とか悪とかというと、頭の中で考えて、これは善いこと、これは悪いことという風に空に考えることが出来るわけだけれども、正しいとなると、その時間、その場所において適合しているかどうかと言う様な事が問題になる。仏道というのは非常に現実的な教えだから、空にこれは正しい事、これは正しくない事というよりも、もっと具体的に適合するかどうかという考え方をするから、正しいとか、正しくないとかということがわりあい議論の中心になる。そういう関係があると思いますね。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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