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正法眼蔵 心不可得(前) 2

心不可得の巻、本文に入ります。

釈尊が言われた
過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得 (金剛般若経より引用)

釈尊が言われた言葉にについて道元禅師が説示されます。
過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、心と言うものはつかまえることが出来ないと言う事が釈尊以来代々の祖師方が勉強された結論である。その方々がどういう生き方をされてこられたかというと、心というものはつかまえることが出来ないとはっきり納得し自分自身が住むほら穴はしっかり自分のものとして使ってきた。自分の住む洞穴とは何かというと、心とはわからないものという確信を持って堂々と生きてきた事である。

我々は日常生活において瞬間瞬間に生きているのであり、現在の瞬間においてあれこれと考えているけれども、その考えている主体というものも、これが心だという形でつかまえる事が出来るものではない。我々は日常生活の二十四時間において、全力を尽くして一所懸命生きているのであるけれども、そういう二十四時間の生活というものも、心というものから考えてみると、それはつかめるものではない。

仏道修行をして釈尊の教えの真実に到達した人は、心はつかまえる事が出来ないと言う事を理解した。釈尊の教えの真実に到達していない人は、心はつかまえる事が出来るか出来ないかということについて疑問を持つ事はない、それに対して意見を述べる事もないし、そういう問題がある事を見たり聞いたりしないという事が実情である。 まして、経師(経典を読んでその意味を理解しようとしている人)、論師(仏教哲学を理論の上だけで論じている人)、声聞(理屈だけで仏教を理解しようとする人) 、縁覚(自然の環境の中で仏教を理解しようとする人) 、これらの人々がまだ夢にさえ見たことのないところである。その様な事態の実例は身近にある。

その実例とは何かというと、臨済系の有名な師匠である徳山宣鑒禅師が、かつて「金剛般若経」をすっかり読みこなした「金剛王」と自分で言って自慢していた。特に青竜寺の僧侶が作った金剛経の注釈書に対する理解が優れていると言われていた。さらに十坦に及ぶ書物を著作したと言われており、徳山宣鑒禅師と同等に扱うことの出来る様な経典の注釈をした人はいなかったようにみえた。しかしながら、自分(道元禅師)の立場から見ると、所詮文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
智慧に関する事だと思うのですが、よく世間では、「あの人は先見の明がある」とか 「先見の明があった」とかと申しますけど、仏教的にこの「先見の明」と言うのはどう解釈したらよろしいのでしょうか。

先生
先が読めるという事、これも智慧があるかないかと言う事に関係しますね。ただ先の事が読めるよりも現在どうしたらいいかで的確な判断の出来る方がより大切だという事は言えますね。将来ああなるだろう、こうなるだろうと言う判断よりも、今日何をやったらいいか、今日何をやらなければならないかと言う事が人間にとってはるかに大切だと思います。常識的に言うと「あの人は先が見える」と言う事で、その方が評価されますがね。

先が見えるということは、当てにならないという事でもあるわけです。この世の中、現実はどう変わるかわからず、明日はどうなるか、明後日はどうなるかと言う事はそう的確には誰も読めないわけです。そうすると、先が読めるという事よりも、今何をしたらいいか、今どうしたらいいかと言う判断の方がはるかに大事だと言えます。
  
質問 
「熟慮断行」と言う事を申しますが、・・・。
   
先生
十分に考える事が必要でないと言う事ではない。学問を一所懸命勉強して、どういう事をやったらどういう結果になると言う事も大切な事です。そういう科学の積み上げが無ければ、人類は月へ到達すると言う事も出来ないわけです。「熟慮断行」は長い時間をかけての目的に向かっての努力と言う事になろうかと思います。ただ、もっと厳密に我々の日常生活を詰めて考えるならば、今どうするか、今どうするかと言う問題の方がはるかに現実的に迫ってくる。だから、それにどう対処するかということが一番の関心ごとになる。そういう事でもあるわけですよね。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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