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正法眼蔵 心不可得(前) 1

「心不可得」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「心不可得」とは、心というものはつかむことが出来ないということであって、我々は普通、心はつかむことが出来ると思っている 。だから「自分の心」とか「人の心」とかというし、頭の中で反省すれば、自分の心が何かあるように感じている。ところが仏教哲学では、昔から心はとらえられないというのが原則であって、たとえばそういう点では面白い話として、達磨大師と弟子の太祖慧可大師の話が伝わっておる。

達磨大師の弟子の太祖慧可大師が修行しておったけれども、なかなか仏道というものがわからない。そこである日、達磨大師に対して質問して、「自分はどうも心が迷っていて仕方がありません。どうかこの迷いをお解きください」とお願いした。すると達磨大師が「よし、承知した。その代りにお前の心を持ってこい。おれがいつでも直してやる」と言われた。太祖慧可大師は自分の心を見つけ出して師匠のところへ持って行こうと思ったけれども、さあいくら見つけ回っても、自分の心というものは実体としてはない。そこで恐る恐る師匠のところへ行って「心というものを一所懸命見つけまわりましたけれども、どうもつかまえることが出来ませんでした」と言ったところが、達磨大師が「よし、それでいいんだ。お前は心をつかむことが出来なかったんだから、迷うこともできないはずだ。心はあると思っているから、迷ったのであって心がないということがわかってくれば、迷おうとしても迷うことが出来ないはずだ。そのことはお前が悟った事を意味する」と言われたという問答が伝わっておる。

常識的に、我々は心というものはつかめると思っているけれども、実際には心というものはつかめないというのがどうも本当らしい。だから「仏教では心とは何かというと牆壁瓦礫」と言う様な事を言う。「牆壁瓦礫」というのは垣根、壁、瓦、小石の事であって、たまたま例に挙げたまでで具体的なそのものが心の実体である。だから我々は常識的には、心で何かを見る心で何かを聞くという。心というものが別にあって、目に触れるものが見え、耳に聞こえるものが聞こえるという風に考えておるけれども、仏教では物がそこにあるということが心があることではなかろうかという推察の種にはなっておるけれども、物以外に心があるわけではなくて、心と物とが一つになった現実があるだけでしかない。そういう考え方をする。

だから心というものが独立に別にあって、それが物を見る、物を聞くという風な事は実体にそぐわない。心と物とがぶつかって、そこに生れる火花のようなものが現実であり、我々の日常生活なのである。それ以外に心というものが独立してあるものではない、物というものが独立してあるものではない。そういう考え方をする。心というものはつかまえられないものであって、独立して存在するものとして、手に取ってみるというわけにはいかないものだということが、ここのところの「心不可得」の巻の趣旨ということになる。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
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師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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