正法眼蔵 法華転法華 26
法華転法華について道元禅師の注釈は続きます。
大鑑慧能禅師が「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず、究尽すること能く是の如くなれば」と言われた。ここで言われている事は、心が迷っていても、心が悟っても、そう大したことはない。心が迷っていれば傍がうまくやってくれるし、自分がしっかりした時には自分で積極的に動きが出来るけれども、結局は宇宙が動かしてくれると言う事でもある。だから迷っても悟っても、そう大した違いはない。このような事態というものがわかってくると、宇宙全体が宇宙そのものを動かしていく。
※西嶋先生解説
――そのことは、現実の世界がありのままに現れてきたという言うことであって、現実の世界がありのままに現れてきたということは、自分の心の中を振り返ってみるならば、善玉も悪玉も消えてしまったということでもある。現実世界の実体がどうなっているかが非常によく見えて、その実体の即してどう動いたらいいかがすぐわかるというのが仏の世界。そのことは自分の心の中の善玉も悪玉も一つに重なって消えてしまった状態ということが出来る。それを宇宙が宇宙そのものとして動いていく状態である。――
この様に宇宙というものに供養を捧げ、教敬し、尊び、褒め称えること、これこそ宇宙が宇宙そのものであって、それ以外の何ものでもない。これが仏教の立場である。
「正法眼蔵法華転法華」
1241年 夏安居の日、観音導利興聖宝林寺の開祖であり、
宗の国に行って宇宙秩序を伝承してきた僧侶道元が書き記した。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
まことに素朴な質問ですが、「いったい何を頼りに生きようか」聞かれた場合に、まあ我々には「坐禅しろ」といわれて(笑)それはそれでいいわけですけど。
先生
まあ、私はやっぱり坐禅を頼りするという事を言いますね。 ただもっと仏道の立場から四段階でいうならば、一番目は自分を頼りにしなさい、二番目が自然を頼りにしなさい、三番目は自分の行いを頼りにしなさい、四番目には坐禅を頼りにしなさいと、こういう四段階だと思います。 自分を頼りにする、自然を頼りにする、行いを頼りにする、坐禅を頼りにする。
質問
「自分を頼りにしなさい」と先生は突っ放しますが、自分を頼りに出来るという自信がなかなか固まらないから、やっぱりそういう・・・・。観音様とか、神様とか、仏様とか、偉い人とか、極端なことを言えば占って見てもらうという、自分自身が本当に自信を持って頼りにならないから、迷うから、そうなるんだから、そこのところは、先生流に突っ放さないでもう少し親切丁寧に詳しく説明してください。(笑)
先生
まず自分を頼りにするしかないんですよ、打つ手が。その次に頼りになるのは自分の欲望ですよ。お腹が空いたらご飯を食べなきゃならない。眠くなったら寝なきゃならない。そういう事につき従っていくという事が仏道修行の一つです。それと同時に社会生活では働かなきゃならない。まあ学生は学校の勉強をするという事でいろいろ立場はありますけどね、とにかく何かをしなきゃならないという事、これも仏道修行の非常に大切な内容です。
質問
坐っていても、たとえば何か色々ゴチャゴチャとしちゃって、自分ではどうもハッキリしない、それでも坐禅の効果は・・・。
先生
それはもう絶対の効果があります。それはやらなかった時に比較すればわかる。私なんかもそう。だから調子が悪かろうと悪くなかろうと、とにかく機械的に坐るという事を私は勧めるわけです。人間、いろんな調子がありますよ。そりゃもうどうにもこうにも調子の悪い時もあるけれども、それでもとにかく坐るという事。で、やるという事、あるいはやったと言う事には絶対の価値があるということ。そういうもんですよ。だから、うまくいった、うまくいかないなんていう事も本人がそう感じているだけの事で、決して価値のない坐禅と言う様なものはあり得ない。道元禅師も「正法眼蔵」の中でしきりに、そんな事が分かるもんではないと言っている。そういう事になると思う。
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大鑑慧能禅師が「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず、究尽すること能く是の如くなれば」と言われた。ここで言われている事は、心が迷っていても、心が悟っても、そう大したことはない。心が迷っていれば傍がうまくやってくれるし、自分がしっかりした時には自分で積極的に動きが出来るけれども、結局は宇宙が動かしてくれると言う事でもある。だから迷っても悟っても、そう大した違いはない。このような事態というものがわかってくると、宇宙全体が宇宙そのものを動かしていく。
※西嶋先生解説
――そのことは、現実の世界がありのままに現れてきたという言うことであって、現実の世界がありのままに現れてきたということは、自分の心の中を振り返ってみるならば、善玉も悪玉も消えてしまったということでもある。現実世界の実体がどうなっているかが非常によく見えて、その実体の即してどう動いたらいいかがすぐわかるというのが仏の世界。そのことは自分の心の中の善玉も悪玉も一つに重なって消えてしまった状態ということが出来る。それを宇宙が宇宙そのものとして動いていく状態である。――
この様に宇宙というものに供養を捧げ、教敬し、尊び、褒め称えること、これこそ宇宙が宇宙そのものであって、それ以外の何ものでもない。これが仏教の立場である。
「正法眼蔵法華転法華」
1241年 夏安居の日、観音導利興聖宝林寺の開祖であり、
宗の国に行って宇宙秩序を伝承してきた僧侶道元が書き記した。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
まことに素朴な質問ですが、「いったい何を頼りに生きようか」聞かれた場合に、まあ我々には「坐禅しろ」といわれて(笑)それはそれでいいわけですけど。
先生
まあ、私はやっぱり坐禅を頼りするという事を言いますね。 ただもっと仏道の立場から四段階でいうならば、一番目は自分を頼りにしなさい、二番目が自然を頼りにしなさい、三番目は自分の行いを頼りにしなさい、四番目には坐禅を頼りにしなさいと、こういう四段階だと思います。 自分を頼りにする、自然を頼りにする、行いを頼りにする、坐禅を頼りにする。
質問
「自分を頼りにしなさい」と先生は突っ放しますが、自分を頼りに出来るという自信がなかなか固まらないから、やっぱりそういう・・・・。観音様とか、神様とか、仏様とか、偉い人とか、極端なことを言えば占って見てもらうという、自分自身が本当に自信を持って頼りにならないから、迷うから、そうなるんだから、そこのところは、先生流に突っ放さないでもう少し親切丁寧に詳しく説明してください。(笑)
先生
まず自分を頼りにするしかないんですよ、打つ手が。その次に頼りになるのは自分の欲望ですよ。お腹が空いたらご飯を食べなきゃならない。眠くなったら寝なきゃならない。そういう事につき従っていくという事が仏道修行の一つです。それと同時に社会生活では働かなきゃならない。まあ学生は学校の勉強をするという事でいろいろ立場はありますけどね、とにかく何かをしなきゃならないという事、これも仏道修行の非常に大切な内容です。
質問
坐っていても、たとえば何か色々ゴチャゴチャとしちゃって、自分ではどうもハッキリしない、それでも坐禅の効果は・・・。
先生
それはもう絶対の効果があります。それはやらなかった時に比較すればわかる。私なんかもそう。だから調子が悪かろうと悪くなかろうと、とにかく機械的に坐るという事を私は勧めるわけです。人間、いろんな調子がありますよ。そりゃもうどうにもこうにも調子の悪い時もあるけれども、それでもとにかく坐るという事。で、やるという事、あるいはやったと言う事には絶対の価値があるということ。そういうもんですよ。だから、うまくいった、うまくいかないなんていう事も本人がそう感じているだけの事で、決して価値のない坐禅と言う様なものはあり得ない。道元禅師も「正法眼蔵」の中でしきりに、そんな事が分かるもんではないと言っている。そういう事になると思う。
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