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正法眼蔵 法華転法華 25

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

今この法華経を勉強する事によって、大鑑慧能禅師の法華経に対する解釈の仕方を聞き、大鑑慧能禅師の解釈に出会うことが出来た。過去において沢山の真実を得られた方々がいるが、その中でも特に優れた方にお会いする事が出来たと言える。この我々の住んでいる宇宙そのものが、過去において真実を得られた方々のつくられた世界、あるいはそういう方々が生きておられた世界と全く同じ世界だと考えざるを得ない。

この我々が住んでいる宇宙は、無限の過去から無限の未来に至るまで常に変わらぬ素晴らしい世界である。昼であろうと、夜であろうと、常に変わらぬ素晴らしい働きを示し続けて生き生きとした活躍を遂げている。我々自身においても、自分の体、自分の心を使って、ある場合には一所懸命に努力する。ある場合にはすっかり悲観してしまって弱々しくなるというような様々の状態がある。しかし宇宙そのものは自分自身をも含めて、きわめて素晴らしい宇宙そのものに他ならない。この様な立場から見ると、このあらゆる現実というものは、素晴らしい宝であり、光明であり、真実を求める場所であり、広大深淵であり、深く大きく永遠である。

心が迷っている時には、宇宙そのものが周囲から我々を動かして宇宙としての活動が進められていくし、自分自身がしっかりしてくると周囲の環境を動かしてやはり同じように宇宙の素晴らしい活動を続けさせていく。そういう状態のものであるから。宇宙によって動かされていく状態と、自分自身が宇宙を動かしていく状態と、二つのものが重なり合って一つになった状態なのである。

※西嶋先生解説
――だから仏道の立場というのは、常に我々が二つに分けて考えがちのものを一つに寄せ集めて、現実の世界に触れるということであり、それが仏教の基本的な考え方ということになる。ここでしきりに我々の住んでいる世界が素晴らしい、素晴らしいという風に説かれているけれども、日常生活を送っている普通の立場からすると、「そんなに素晴らしいのかなあ」と首を傾けるという事が多々ある。もっと憂鬱で、もっとままならない、もっと嫌な世界だという考え方もある。

ただ、坐禅をやって終わった時の瞬間の清々しさというものが、宇宙そのものの素晴らしさの実体なのであって、調子が狂っていると、なかなか宇宙の素晴らしさというものがわからん。そのことはどういうことかというと、赤い色眼鏡を掛けていれば世の中全体が真っ赤に見えるし、青い色眼鏡をかけておれば、世の中全体が真っ青に見えるということでもある。大抵は色眼鏡をかけて「世の中は赤い赤い」と言ってみたり、青い色眼鏡をかけて「世の中は青い青い」と言ってみたりしているのが普通の生き方であって、眼鏡をはずすとなんか寂しくなる。本当に自分が見ていないような気になる。

素通しの眼鏡ではどうも外界を見ていることにはならんということで、赤い眼鏡がいい、青い眼鏡がいい、いろんな眼鏡を買ってきて「赤く見えるのが本当だ」と言う様な事を新聞に堂々と書く。雑誌に論文として「赤く見えるのが本当だ」と言う様な事を書く。そうするとそれを読んで、なるほど赤く見えなきゃおかしいのかということで、自分も赤い眼鏡を買ってきてかけてみると、「なるほど世の中は赤い」と言って満足しているけれども、実体はそうではないということである。そして時代が変わってくると、今度は「青い眼鏡の方が本当だ」という評論家が現れて、雑誌に書いたり、新聞に書いたりする。それを読んだ人が「やっぱり青い眼鏡の方が本当だ」ということにもなりがちなのであって、世の中の動き、思想の流れというのは実にそういった面が多い。

そうすると、どういう考え方が何十年たとうと何百年たとうと変わらない考え方かということが非常に大切になってくる。もっとも、世の中の考え方に従ってうろうろくっついて歩いていくにはちょうどいいじゃないか、損をしないですむという生き方もある。(笑)そういうのは大体、今日流行している哲学だけれども、人によってはそれではちょっと寂しいと思う。そういう人にとっては、どんな時代が来ようとも通用する考え方とは何かということを知りたい気持ちが起きる。そしてそういうときに仏道というものが必要になってくる。そういう気持ちを持たない人は仏道なんか勉強する必要がない。――


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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