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正法眼蔵 法華転法華 22

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

また法華経の中には、仏の前に価値の高い塔が出現したと言う話があるけれども、その様に価値の高いものもこの世の中には存在し、その高さは五百由旬(インドにおける単位)である。そしてその尊い塔の中に真実を得られた仏が坐っていたという宇宙の現れ方もあり、その広さは二百五十由旬である。またその様な塔が大地から湧き出して、それが空中にあるという宇宙のあり方もある。

※西嶋先生解説
――この辺でどういうことを説かれているかというと、この世の中のあり方、この宇宙のあり方というものは、実にすばらしい内容のものであって、人間ではとても想像つくしえないような形で、様々に出現するということを「法華経」の言葉を借りながら言っておられるわけである。――

この宇宙というものは、心も拘束された存在ではないし、心を取り巻く環境も拘束されたものではない。空中から生まれて地の中に住まうと言うあり方もある。この場合は、目によって拘束される事もあるし、肉体によって拘束される事もある。そして、塔の中に釈尊がつくられた仏教教団があったし、また釈尊がつくられた霊鷲山の教団には価値の高い塔があった。そしてその価値の高い塔は、空間の中にその価値の高い塔として建ち、また空間はその価値の高い塔を包み込む事によって、空間としての意味を発揮している。

そして、塔の中におられる古仏の方々は、その席を釈尊が組織された仏教教団において釈尊と同じ地位に並べ、また釈尊の教団において真実を得られた方々は、その体験というものが塔の中の真実を得られた方々と同じ体験であるということを実証された。釈尊の組織された教団における真実を得られた方々が、「法華経」に説かれた宝塔の中に入ってそれを体験する際には、特別に霊鷲山の教団から脱け出して、その宝塔の中での体験をするということではなくて、霊鷲山の教団における周囲の様子は少しも変わることなしに、しかもその塔の中における体験というものをするのである。



          ―西嶋先生の話―
                       --つづき

そういう点では、なかなか現実は厳しいから理屈通りにはいかないんだ、机の上だけの理論ではとても処理できないんだ、と言う事情も勿論あるかもしれないけれど、しかしそれと同時に、やり方が百点満点で直すところがどこもないんだ、もうこれ以上の合理的なやり方はないんだと言う状態までいくという事はなかなか普通は難しい。だから考えてみれば、色々とまだこうしたらどうだ、ああしたらどうだ、と言う問題があるのではないかと思う。

だからあまり忙しすぎると、仕事のやり方を考える暇がないという恐れもある。 そうすると、多少のゆとりを持って、仕事のやり方がいいか悪いかと言う事も常に考えざるを得ないというふうな問題もあるのではないかと言う気がするわけです。

非常に抽象的な話だから実際問題になると、中々それこそ理屈どうりにいかないという問題は勿論ある。 それは理屈の方も現実が非常に複雑だから、現実にあった複雑な理屈が必要だと言う事でもある。 理論も決して単純な理論では現実にピッタリ合わないと言う問題がある。 だから、その点では単純な理屈だけではいかないと言う事も勿論あるけれども、それと同時に、基本的には、やはり理論に合った場合は、合わない場合よりも結果ははるかによくなるという問題があるということを、最近、面接の時の話の中から感じたので、とりあえず話しておこうと思ったわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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