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正法眼蔵 法華転法華 21

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

宇宙の中で真実を得たと言う事は、釈尊の説法を聞いた霊鷲山の人々と決して異なるものではない。そしてまた、釈尊を中心にして仏教徒がたくさん集まったと同じように、たくさんの人々が集まって仏道を勉強するということは、必ず宇宙が活発な姿で動いていくと言う事と同性質のものである。また空間にたくさんの人々があって、仏の世界をつくるという事もある。これも宇宙の活発な働きの一つの現れである。

そして宇宙全体が真実を得られた方々の住まうべき土地として、活発に活動しているのであるから、その宇宙以外のほんの僅かな物質的な単位といえども、その宇宙に付け加わると言う事はありえない。般若心経の中に「色即是空」という言葉がある。色というのは物質、物質的な存在というものも、立場を変えて捉えるならば、それは「”ない”というふうな捉え方もできる」というのが色即是空。そういう点では、物質的世界、客観的世界を大したことはないというふうに感じながら、人生を生きていくという生き方もある。また「空即是色」という考え方もある。何でもない、大したことはないと思っても空即是色(具体的な実在)はあるし、それが我々の日常生活の活動である。そういう状態においては、生きるとか死ぬとかと言う事は問題にする必要もない。生きている時が大事だとか、死んでから先に永遠の世界があるとか言っても始まらない。

また「法華経」の中で親友が友達に価値の高い珠を与えたという話があるけれども、自分にとって親友であるものは、自分自身もその人にとって親友である。そして、親友同士がお互いに礼儀を尽くし、一所懸命尽くし合うと言う事を忘れてはならない。そこで「法華経」の中でも、髪の中に隠してある珠、衣服の中に隠してある珠というものを友達に与えるという時期もあったのである。このような人と人との関係、親友同士の関係をよくよく考えて見るべきである。


              ―西嶋先生の話―
                           つづき--

我々はこの世の中で生きていく場合に、いったいどういう世の中に住んでおって、どういう生き方をしたら理論にあうのか、理屈に合うのか、時代の流れに合うのかということはかなり真剣に考えてみる必要があるように思う。これは仕事のやり方としても、例えば商売のような場合、お客さんのところへ「こんにちわ」と言って、「買ってくれませんか」という話を始めてから売上と直接関係が出来てくる。

お客さんの店につくまでは、売上とは直接関係がない。売り上げを増やすための準備の仕事である。けれども準備の仕事に片道一時間も一時間半もかかるということになると、かなりの時間なりエネルギ―というものが、売り上げを増やす直接のこと以外のところで使われてしまうという恐れがある。そういうふうな点も、やはり理屈に合うか合わないかと言うところから考えていく事がわりあい大事である。そうすると仕事のやり方一つにしても、きわめて身近な、きわめて具体的なところで理屈に合っているかどうかと言う事がかなり大切になってくるような気がする。

また長い時間をかけて仕事をやれば、売上がそれに正比例して増えるかというと中々そうはいかない。やっぱり、人間、疲れるという問題も出てくるわけです。そういう点からすると、なるべく合理的に仕事のやり方を組んで、出来るだけ早く切り上げて早く休む、そして休んだ事が翌日また元気な仕事につながると言う方法がないか、どうかと言う事を真剣に考えて見る必要がある様な気がする。
                           つづく--


読んでいただきありがとうございます。


                          
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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