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正法眼蔵 法華転法華 20

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

法華経の中に、一時仏住(あるとき仏がどこどこに住んでおられた)という記述がある。この言葉は、ある瞬間における仏のあり方というものを、この世の中の実体としてとらえるべきであると言う事である。様々な人がこの世に現れるが、その現れ方は真実を知り真実の世界に入る形での現れ方もあるし、また釈尊と同じような考え方や見方になって、この世の中に現れてくる場合もある。この様に積極的にこの宇宙を動かしていくという事態においては、宇宙そのものが悟りと一体になった状態であり、真実と一体となった宇宙が存在するのである。

また「法華経」の中で、「下」とか「空」とかという言葉が出て来るけれども、そこでいっておる下方とは別の言葉でいえば 空中、空間といういうことであり、空ということでもある。それらはいずれも宇宙が生き生きと活動している姿であり、その宇宙の様子というものは、真実を得た人々の寿命と同じように無限の寿命を持っている。そこで釈尊の寿命あるいは真実がどのくらい続くかということ、あるいはこの宇宙、あるいは宇宙包み込んでいる世界、あるいはたった一つの心、あるいはこの宇宙の全てが一つの心という捉え方で捉えた一心は、それが高い立場から見れば、という捉え方もできるし、また地上の低いところから見るならば、における姿だという捉え方もできる。この様な理由からこの下方とか空中とかは、いずれも宇宙が宇宙として生き生きと活動しておる姿の実現を指しているのである。

そして総じてこの様な状態の時には、宇宙が活動して大・中・小というふうな様々の種類の草を生い茂らせるのであり、宇宙を活動させて、大・小という木を生い茂らせるのである。単に草とか木に限った事ではなく、この宇宙の中に出てくる様々の事物や一切の物、それが単に一種類ではなしに様々の種類のものとして発生しあるいは消滅していく。ただ宇宙の中においてそれらが生まれたり滅びたりしているのである。その点では、この宇宙の中に悟りがあると期待する必要もないし、そんなものは無いのだと疑問を持つ事も適当ではない。宇宙が活動し、またその中で真実を得たいという努力をしていく時に、この世界というものは汚れのない世界になるのである。



              ―西嶋先生の話―

今日は「合理」と言う事を話しておきたいと思います。合理というのは、合理化とか合理主義とか言っている時の「合理」、理屈に合うと言う事です。なぜ「合理」と言う話をするかと言うと、先日会社の面接の時に、学校を出て間もない若い人と話しておったところが、その人が話の途中で「合理と言うのは悪い事かもしれませんが」ということを言った。で、私はビックリした。その若い人は、理屈に合うという事は、あまりいい事ではないという考え方をもっていたらしい。そこでビックリしたんで、「いや、理屈に合うというのは、決して悪いことじゃないだろう」と言う話をしたわけであります。

その面接を受けた人は、学校で教わったか、社会に出てそれから知ったか、あるいは社会以外の家庭の中で知ったかはわかりませんが、どうも理屈に合うことは悪い事だと思い込んでいる。そういう考え方もあるのかと実はビックリしたのです。なぜその事が気になったかと言うと、仏教では元来、原因・結果の関係を信じているから、理論に合うという事は非常に大切な事であって、理論に合わないという事はおかしいと言う考え方をするわけです。その点からすると、理屈に合わない事が正しいと言う考え方が、かなり理解しにくいと言う面があるわけです。

ところが、一方西洋の宗教では、理屈に合わない事が宗教の本質だという考え方があることはある。たとえば、聖書などによるとキりストが水の上を歩いたとか、あるいは一欠けらのパンをいくつにも千切って分け与えたところが、何十人、何百人の人が全員お腹が一杯になったとか、今日の常識から考えると、到底考えられないような事が書いてある。そういう考えられない様な事を信ずるのが宗教であり、本当の考え方なのだという思想が西洋にはある。ただ仏教では、因果関係を信ずると言う事が基本にあるから、理屈に合わない事はおかしいと言う、これが基本原則なのです。その点では、西洋流の考え方とちょっと違うという問題があるわけです。

例えば〇〇ですが、〇〇の決算は毎年大赤字ですから、あれは普通の企業だったらもう存続していません。たまたま国家という背景があって、税金でどんどん赤字を埋めてくれるから、兎に角つぶれないでやっていけるわけです。そこへ勤めている人が「合理化反対!」なんて言って握り拳を突き上げているのを見ていると、実におかしい。考え方がずいぶん子供っぽいなあという感じがする。自分の頭のハエを追って初めて一人前。一人前でないのに、「合理化反対!」なんて言っているのは実に呑気な話だと思う。そういうところから見ると、今日の社会の一部には、理屈に合う事はおかしい事、正しくない事と言う考え方があるのかもしれない。  つづく--
                  ―1979年5月17日の講義より―
                                      

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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