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正法眼蔵 法華転法華 19

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

「法華経」の中に、地面の中からたくさんの仏(真実を得た人)が涌き出てきたという記述があるけれども、これは単に「法華経」の中で地面から仏がわき出てきたということだけではなしに、我々自身がこの世の中(宇宙)に、生を受けて出てきた。そのことは非常に尊い事である。 地面からたくさんの仏が現れてきたということは、この宇宙の中における尊い方々の出現であるけれども、その方々と言えども、自分自身でこの世に出てこられると同時に、また自分以外の客観的なものによって動かされて出てくるのである。

単に地面から湧き出てくるという事だけが、この世のあり方ではなくて、空間の中に生まれるという事もあるし、地上とか空間とかだけから湧き出てくるということではなくて、宇宙そのものから生まれて来るということも、釈尊と同じ立場に立って知らなければならない。総じて、この宇宙の中におけるあり方というものは、かならず父親が若くて子供が年を取っているものである。

※ 西嶋先生解説
――この事はどういうことかというと、人間の若さ、あるいは老成しているかどうかということは、単に年齢だけでは決まらないということ。仏の見方からするならば、年を取っている人が必ず考え方が老成しておって、年齢の若い人が老成していないということではない。そのことは父を釈尊にたとえるならば、釈尊の弟子には釈尊より年配の人はたくさんいた。ただ年齢の方は弟子の方が年を取っている場合でも、釈尊の方がものの考え方においては老成しておった。ところが実際の年齢では釈尊は弟子よりも若かったということが実情である。――

仮に年をとっている、老成しているからと言って弟子でないということはない。また釈尊が年若であったからと言って、それが師匠としての素質を具えていなかったわけではない、釈尊と弟子との関係からしても、弟子が年を取っており、釈尊が年若であったということを学ぶべきである。世間一般の考え方からすれば、父親が年を取っている、子供は若いというのが普通の常識的な捉え方であるから、父が若くて子が年取っていると言えば世間はそれを信じない。びっくりするのが普通であるけれども、しかしそのような仏教を信じない人々のまねをして驚いてはならない。 世間のものの考え方と違った考え方でこの世の中を捉えるという事、つまり、家庭生活あるいは社会生活というものの考え方から一度はずれて、真実の立場からこの世の中というものを見直す必要がある。それが本当の意味での宇宙が真実の姿を現した時でもある。



          ―西嶋先生の話―
                       --つづき

もちろんそのあとで、判断が正しいか正しくないか、色々と材料を寄せ集めて検討する必要はある。だけれども、我々の判断というものは色々と長いこと考えた末やっと出て来るものではなくて、一番最初にどうしたらいいかパッと出てきてしまうものである。そういう直感的で現実的な判断が我々の日常生活の基礎であるというのが釈尊の教であって、このことも我々が日常生活を生きていく上ではかなり大切な事である。

そういう点では、我々の心の中にありがちな善玉と悪玉というものを、二つを一つに重ねてしまう修行としてやるのが坐禅ということになる。だから我々が足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っておる時には、善もなければ悪もない状態である。善もなければ悪もない状態というのは、きわめて現実的な世界に生きている状態である。そのきわめて現実的な世界というのは、もっと具体的に言えば、目の前に見えている窓であり、柱であり、エアコンの回る音であり、外で聞こえる車の音であり、そういう極めて単純な世界に我々が生きているということを、坐禅をしておる時に初めて感ずる。

坐禅をしていない時にはいろんな考え方を持って、いろんなことを考えているから、そういう極めて複雑な世界に我々は生きていると思い込んでおる。ただ複雑な世界というのは、頭で考えられた世界であって自分がつくった世界なのである。だから本当に現実に生きておる世界とは別なわけです。

我々は現実の世界に生きているのだから、最も現実的な立場で、現実の問題について、現実的な判断を下さなければならん、そういう問題がある。その点で、仏教的な考え方というのは、今後の時代にはかなり役立つ考え方として、我々の日常生活にいきてくるというふうに見て間違いないと考えられるわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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