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正法眼蔵 法華転法華 18

「心悟れば法華を転ず」に入る前に西嶋先生の話です。

前回までは「心迷えば法華に転ぜられる」というところを説いたわけでありますが、今度は「心悟れば法華を転ず」という個所に入ります。前にやった「心迷えば法華に転ぜられる」というのがダメで「心悟れば法華を転ず」というのが優れているということでは決してない。ここで説かれているのは、何が何だかよくわからないけれども、宇宙が自然に我々を動かしてくれるという面もあるし、また自分自身が積極的に宇宙を動かしていくという立場もある。二通りあって、二通りとも正しいというのが、この「法華転法華」に書かれている趣旨である。その二つがより合わさって法華転法華となり、宇宙が自分で転がり、また宇宙を我々が転がしていくという、主観と客観とが一致した状態というものが生まれて来る。決して、前の段階の「法華に迷えば法華に転ぜられる」というのがダメで、「心悟れば法華を転ず」というのがいいんだということではない。

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師が注釈されます

「心が悟れば、宇宙を転ずる」というは大鑑慧能禅師が言われた言葉である。我々の住んでいる宇宙を動かしていくということの意味は、文字通り、この我々の住んでいる素晴らしい宇宙を動かしていくことである。先に述べた「心迷えば法華に転ぜられる」ということを学んだわけであるけれども、そういう宇宙によって我々が動かされていくという力が、究極のところに到達すると、逆に自分自身が宇宙を転動させる現実の力が生まれてくるものである。

このように自分自身を動かし、周囲を動かすところの力が現れてくる事が転法華(宇宙を動かす)という事の意味である。それまでも、宇宙というものは絶えず動いていて、それの止まるという事がなかったのであるけれども、それが自然に今度は逆の方向に変わって宇宙を動かすようになるのである。日常生活において、ありふれた、しかもちょっと変わった事態が次から次へと起こってくるのである。そのような状況の中で、この世に出現するのは何のためかと言うと、ただ一大事因縁のために出現するということがあるのである。

※西嶋先生解説。    
一大事因縁というのは、釈尊がこの世に出られた場合には、この我々の住んでいる宇宙の真実というものが何であるかということをつかんで、それを人々に教えてやろうということのためである。そのことは釈尊に限らず我々一人一人がこの世に生まれ出てきて何をやって一生を終わりにするかと言う事は、どの人の一生をとってみても「一大事因縁」なのである。だから釈尊だけが一大事因縁 をして、その他の普通の人間はそういう貴重な生命を持たなかったということには決してならない。誰にとっても人生は大切なものであって、たまたまこの世に人間として生まれて来たということから、どんな形で一生を終るかということが非常に大切な事であるし、それが「一大事因縁」と言われるものである。



          ―西嶋先生の話―

前回の話の最初にも、我々の心の中には、善玉と悪玉があって、その二つの両方あるうちは人間はまだ本物ではない、むしろ善玉と悪玉、あるいは良心と悪心とその二つが一つに重なって、善心も悪心もなくなったところに本当の人間が出てくると、そう言う話をした。こういう話を聞くと、たいていの人が少し奇妙に感ずると思う。我々はふだん学校で良心というもの、善心というものは非常に大切なもので、それがなくては人間ではないというふうに教えられてきておる。ところが仏教では善心あるいは良心というものが目立って自分の心の中に感じられるうちは、まだ本当の自分というものが出てきていないということをいうわけである。

そのことはどういう点で実際生活に役立つかというと、例えば我々が日常生活でいろいろ判断するときに、一番正しい現実的な判断というものは、自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なってなくなった時に出てくる。良心と悪心とが別々にあるうちは「本来こういうふうにしなければならないんだけれども」ということを自分の心の中で考える。ところがあまりそう良心的にばかり考えると、現実に合わない。具体的に言えば損をしてしまうというふうな問題に出くわすと、良心に従いたいんだけれども、実際に従うと損をしてしまう。そういう問題がどうしてもある。

そうすると、判断する場合にも、「どっちにしようかなあ」といって、うろうろ、うろうろ迷う。大抵の場合は良心だけに従っておってはとても飯が食っていけない、そうかといって、良心に背くのも気が咎めるというふうな事で、なんとなくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが、だいたい普通の我々の生き方である。

ところが、そういう心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る。それはどういうことかというと、物事を空に、頭の中で良心を基準にして考えるということもなくなったし、そうかといって、そういう良心というものを全部打ち消してしまって、ただ損得だけを基準にした考え方もしなくなった状態が生まれてきた時に、初めて我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感ずる。そういう二つの考え方がなくなった状態のときには、決断が非常に速い。問題をどう考えようかと思うと、すぐ直観的にパッと答えが出てくる。
                             つづく--


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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