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正法眼蔵 法華転法華 16

「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。

微塵を見るとき、同時に法界を見ないというわけではない。法界を体験するとき、同時に微塵を体験しないと言うわけではない。多くの真実を得られた方々(諸仏)が、この法界を体験されるに当たって、我々の体験というものが多くの真実を得られた方々の体験によって追い出されてしまうというわけではない。時間の前後こそあれ、諸仏も我々も初めもよければ、中ごろもよく、終わりもよいという状態にある事に他ならない。

※西嶋先生解説
――微塵というのは、古代インドにおいて、我々の住んでいる世界を物質的なものとして見た場合に、その物質を細かく砕いていって、これ以上は細かくならないという最小単位を言うのであって、だから微塵という場合には、我々を物質の世界における個別的な世界におるところのものとして微塵という考え方が出てくる。それに対して、宇宙全体を統一的にひっくるんだ世界が法界。微塵と法界というものを対比してここでは説かれているわけである――

この様に考えてくると、現在の瞬間というものも、現に我々がいま体験しているありのままの体験に他ならない。その点では、驚いたり、疑ったり、恐れたり、慄いたりしている瞬間と言えどもありのままの姿に他ならない。どこが違うかといえば、いずれも真実を得られた方々の見方・考え方を基礎にしているのであるが、微塵を眺めているのと、微塵の中に我が身を置いてどっしりと安坐している違いだけに過ぎない。

法界において坐っているときは、広い世界に坐っていると言うわけでもないし、微塵に坐っているときは、狭いところに坐っていると言うわけでもない。真実を得て真実と一体になっていなければ、坐禅というものに安坐することはできないし、また真実をしっかりと持っている場合には、たとえそれが広かろうと狭かろうと、それに驚いたり疑ったりすると言う事はないのである。これは坐禅というものが宇宙の本体および宇宙の力を埋め尽くしているからである。


              ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
障害を持って生まれた人は、生まれながらにマイナスを背負い込んでいます、この世の中と言うのは不公平なものなのでしょうか。

先生
というより、自分と言うものがあるかどうかもわからんわけです。事実があるだけです。ちょっといい事実。ちょっと恵まれない事実。いろんな段階があって、現実と言うものがあるわけです。だからそのうちの一部、これが俺のもので、俺は人に比べて損だとか得だとか言うのは、それは人間が考えるだけで、客観的にはいろんな程度のいろんな状況があるだけです。だからそういう点は、人間の頭で考えれば、あの人は不幸、この人は不幸でないと言う風なことが言える訳だけれども、それはただ人間がそう考えただけで、現実にはいろんな状況が沢山あるということです。


読んでいただきありがとうございます。


  
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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