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正法眼蔵 法華転法華 14

「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。

真実の世界に入る入口が、我々の住んでいる宇宙の至る所にあるけれども、その至るところにある入口において真実を得るという場合もあり、また真実を得た瞬間のそれぞれの瞬間において、この世の中は真実の世界に入る入口に満たされているということを悟る場合もある。また門の内側において真実を得る場合もあるし、門の外で真実を得る場合もある。また火宅(燃え盛る家)の中で悩み、苦しみ、悲しんでいる最中に露地(外の世界、真実の世界)がわかるという場合もある。

この様なところから見てくると、我々の人生における悩みは理解を越えたものである。火宅から抜け出した露地も認識の対象にならない。どういうものが真実で、どういうものが悩みだという事はわかるはずのものではない。欲界、色界、無色界という様々の我々が住んでいる世界というものを動かしていく、あるいはその中を動いていくという場合に、これが悟りで、この悟りの境地に乗って行けばそれでいいと決め得るものでもないし、悟りと言うものが出たり入ったりするところであって、それを出たり入ったり出来ると言う事が誰に出来よう。

いま悩みの真っ只中にあって、何とかして悟りを得たい、悟りを得たいと求めるならば、無限の苦しみの境地を何回となく経めぐる事であろう。外の世界、真実の世界から、火の燃え盛る悩みの境地をはるかに望み見るならば、とてつもなく無限の距離が自分の今いる露地と火宅の世界との間にはあることが感じられる。そこで、露地に釈尊の説かれた教えが静かに存在しているのだと理解したらよいのであろうか。また、釈尊の説かれた教えは、露地に静かに横たわっているものだという事を、実際の修行によって、坐禅の修業によって感得したらよいのであろうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は鎌倉時代の人としては、ともかく偉大な天才であると言う事ですが、「道元禅師が一代でこれだけやれるわけがない。おそらく過去において何代も人間に生まれ変わって、初めてあのようになったんだ。前世はたぶん中国人である」と言う人がいるのですが、先生はどうお考えになりますか。

先生
いや、そんなのはでたらめだね(笑)。人間が生まれ変われるんだったら、何の苦労もないですよ。我々、一回きりだと思うから一所懸命やるんで、二回、三回あるんだとすれば、そう真面目にやらないね。「今回は大いに遊んで、この次は勉強しましょう」と言う事になる。だけれどもそんな事はない。人生一回きりだから、まあ一所懸命やらなくてはならないと言う事だと思いますよ。

質問 
今のお話につけ加えたいんですが、「一回きりだから、太く短く、俺はもうやるだけのことはやっちゃう」という考え方を持つ人があるんですが・・・。

先生
それは趣味の問題。どっちがいいかは趣味の問題。太くやって死ぬ間際になって「いや、こんな苦しみを受けるんだったら、あの時太く短くやるんじゃなかった」という感じもおそらくあると思う。だからそういう点では、どういう道を選ぶかは各人の自由ですよ。石川五右衛門みたいに一所懸命やるんだって、それは勝手な話でね。誰も「それはいけません」というわけにはいかない。ただ因果関係というものを考えると、どういう生き方をしたら死ぬ間際に幸福だと思って死ねるかという問題はあるわけです。その太く短くやった場合に、死ぬ間際に、いいか悪いかということもあるわな。それともう一つは趣味の問題。俺はどっちを選ぼうかという話でね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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