トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 法華転法華 13

「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。

法華経(妙法蓮華経)の中で説かれているところの譬喩に関連して言うならば、燃え盛っている家の中でも、心が迷っているということはあるし、焼けた家から出ようと門のあたりでウロウロしている時にも心の迷いというものはあるし、思い切って門の外に出てしまっても心の迷いはある。門の前でも迷いはあるし、門の内側でも迷いがある。つまり、我々の人生というものは心の迷いと常に切り離す事は出来ないものだと言う事も出来る。

この様に我々が迷うという事が、門の内にもあり、門の外にもあり、門のちょうどその場所にいて迷うことがあり、燃え盛る家屋の中にいるということを、現実にこの世に具現しているのであり、心が迷っているということの中に、我々の日常生活があると言う事でもあるのだから、白牛車(悟りの境地)に乗っていても、さらに真実がわかってくる、ああそうかと気がつく事があるであろう。このように悟りの境地の中でも、さらに悟りに入るということが、その装飾としてあるのであるから、露地(門外の大空の下)こそが、我々の入る場所だというふうに考えたらいいのであろうか、あるいは火宅(燃え盛る火の中)は、出なければならない場所だと考えたらいいのであろうか、その辺も断定できないし、簡単に割り切れる問題ではない。門のあたりは、いつも過ぎ去って行く場所だけと理解したら、それでよいのであろうかどうか。

まさに銘記せよ。白牛車(悟りの境地)の中で、悩みとは、苦しみとはどういうものかということをはっきりと知る場合もある。また火宅(燃え盛る火の中)から逃げ出して、露地(門外の大空の下)において、初めて燃え盛る火の中というもの、悩みの真っ只中というものが、どんなに苦しいものかと言う事をそこで初めてわかる場合もあり、また火宅と露地の中間で初めて、その入り口、中間がどういうものであるかわかる場合もあり、この我々の住んでいる宇宙がすべて真理の入り口である。



          ―西嶋先生の話―

釈尊は三毒(貪・瞋・癡)を避けなければならないと言われた。 この三つの状態に陥ったときには智慧がどこかへ行ってしまうからである。

(貪)むさぼる
欲張っているときには、智慧がどこかに行ってしまう。 五億円の札束を目の前に積まれて、のどから手が出るほど欲しいと思うと、まあ、止めておこうと言う気にならない。
      
(瞋)いかる
喧嘩をしている人をみると、赤くなったり青くなったり、よく大人がこんなふうに一所懸命やれると思うくらい、夢中になっている。 はたの人がどう思っているかなんて事はさっぱり見当もつかない。そういう場合も智慧はどこかへ行ってしまう。 
    
(癡)おろか
過去の出来事を「ああ、あの時こうすればよかった」と後悔したり「こうなったらどうしよう」と先の事を心配してもどうにもならない。 人間には、現在何をやるかと言う力しか与えられていない。
  
坐禅は、智慧を得るための行動。 我々が手を組み、足を組み、背骨を伸ばして坐っている時に智慧はそなわるもの。 坐禅の経験を持つと、その体の状態、心の状態というものが日常生活のどんな時間でもついて回るから判断を間違えようと思っても、間違える事が出来ない。 坐禅は我々の一生を守ってくれると言う事になる。


読んでいただきありがとうございます。


    
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-