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正法眼蔵 法華転法華 12

「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師の注釈は続きます。

この宇宙の運営というものは、それが非常に有り難い喜ばしいことでもないし、その実現を期待してまた意識的に求めて求められるものではないし、放任していたからと言って自然に到来するものでもない。 しかしながらこの宇宙が何の力によるかはわからないけれども、どんどん、どんどんと動いていく実体というものは、二つもなく、また三つもない、たった一つの疑いようのない現実の実体である。

たった一つの仏の世界、たった一つの仏としての日常生活があるのであるから、現に見たままの宇宙の姿であるのであるから、動かすところの宇宙の実体と、動かされるところの我々というものがあることはあるけれども、それらを全てひっくるめて、ただ一つの真実の世界である。それが唯一の絶対の事実である。それは一体何かと言えば、赤心片片(真心を瞬間瞬間に発揮していく)だけのものである。したがって心が迷っている状態を残念に思う必要はない。

お前方の行っているところは、たとえどのように迷っておろうとも、たとえどのように不安に満ち満ちていようとも、これが菩薩道(仏道修行をする人が実際の行動の世界の中で踏みしめていく一歩一歩)である。菩薩の行うべき道というものを実際に行って、様々の真実を得た方々にお仕えすることである。様々の瞬間において、真実を得る、悟る、悟りの世界に入るという事も、それは宇宙が動いていくと言う事実そのものに他ならない。悟りを開こうと迷おうと、すべてが宇宙の運営の瞬間瞬間の事実に他ならない。



           ―西嶋先生の話―

今日、何となく世の中が不安だとかどうなるか分からんとか、基準がないとかというふうな事を人々が感じているようだけれども、その感じておる原因はだいたい自分自身にあるらしい。自分自身で夜遅くまで酒を飲んで頑張っておれば、翌朝、体の調子が悪くて、気持ちが落ち着かないのは当たり前の話で有る。酒を飲んだまぎれにラブホテルへ行って泊って、翌朝何食わぬ顔で出てきたけれども、どうも気持ちが落ち着かないということはあり得ることだ。

その場合、人間というものは割合勝手なもので「世の中が乱れている」という。自分の気持ちの方が乱れているんだけれども、世の中が乱れている、どうもこの世の中はおかしいというふうにすり替えてしまう。そこまで真面目にやっていてもつまらないから俺もやろうというふうになってしまうこともあろうかと思う。

仏教で「澆季末世」というけれども、釈尊が亡くなってから長い時間がたったから、世の中が乱れてくると決まったものではない。乱しておるのはその時代の人間だろうと思う。今の世の中の人間が乱れておるから、いまの世の中が乱れて来るんだという関係だと思う。だから、いい時代にしようと思ったら、我々がどういうことをやったらいいかという自分の問題に逆に帰っていかなければならない、という事情でもあろうかと思う。

※私の独り言。
自宅の坐禅堂には西嶋先生からいただいた「赤心片々」の額を掲げております。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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