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正法眼蔵 法華転法華 11

「心迷えば法華に転ぜられる」について道元禅師が注釈されます。

大鑑慧能禅師に法達禅師が弟子入りして勉強した話というのはいま述べた通りである。この大鑑慧能禅師と法達禅師の問答から、初めて法華転(蓮の花にもたとえられるような素晴らしい現実の宇宙が自ら転動していく)と転法華(真実を得た人が蓮の花にもたとえられるような素晴らしい現実の宇宙を転動させていく)と言う言葉が説かれる様になったのである。この大鑑慧能禅師と法達禅師との問答以前には、法華転とか転法華という言葉は聞いた事がない。

そこで真実を得た人の見方・考え方というものを解明することは、「正法眼蔵」を自分のものとしたところの仏教界の諸先輩方に限るであろう。ただ、無駄にお経を読み、仏教書を読み、文字だけを頼りにして仏道を勉強しても法華経の意味がわかるはずがないという事を法達禅師のこれまでの話によっても知る事が出来る。法華経の正しい思想、正しい意味というものを解明するためには、大鑑慧能禅師のこの教えをたった一つの非常に価値の高い問答であるとしっかり理解すべきである。これ以外によって法華経の意味を知ろうとしてはならない。今ここに述べられた「法華経」がどのように展開されていくかという実際の姿、実際の本質、実際の力、実際の原因、実際の結果というものはこの様である、現実の見たままの姿である。大鑑慧能禅師以前には、中国においてもこの様な説明は未だかつて聞いた事がなかった。

ここに言う法華転とは、心が迷う状態であり、心が迷う状態とは法華転に他ならない。その様に考えて来ると心が迷うということは、宇宙によってそうさせられているに過ぎない。迷うというのは宇宙のおかげである、宇宙の慈悲である。その趣旨はどういうことかというと、心が迷うとそれによってこの世の中が様々の姿に見える。ということは、我々が現に見ているありのままの様々の実体、悩みもあり、不安もあり、様々の混乱もあるところの実体は、この宇宙の実体そのものに他ならない。



          ―西嶋先生に話―                  
                             --つづき

だから仏道を勉強しようとするならば、頭で考えたり、本で読もうとしたりすることよりも、直接坐禅を通して仏の世界に入ってしまうということが大事で、そのことさえやっておれば、仏道というものは自然に身につく。身について離れなくなるから、わかるもわからないもないということが言えようかと思う。そういう点では坐禅をしながら仏道を勉強するということが非常に大切だということが言えるわけであります。

こういう話をすると、仏教を教えておる先生方、あるいは坐禅をやらずに仏教を説いている人々というのは、非常に嫌がる。というのは、それぞれ頭の中だけで考えて、仏教というものはこういう教えだと説いているのだから、坐禅をやらなければ仏教というものはわかるはずがないんだという話を聞くと非常に嫌がる。「そんなことがあるもんか」ということになる。

しかし坐禅をやりながら仏教を勉強して、仏教というものはこういうものかということが、体験としてわかってくると、坐禅なしの仏教というものがいかに儚いものかということを非常に強く感ずるわけです。


読んでいただきありがとうございます。


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コメント
543: by 大川原英智 on 2016/04/28 at 19:46:22

こんばんは。ご訪問ありがとうございました。

僕も座禅に関心があります。

5月1日に、近くの曹洞宗のお寺の座禅会に参加します。

544:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2016/04/28 at 21:39:49

大川原さん、コメントありがとうございます。

5月1日に坐禅会に参加するそうですが、お寺でたくさんの人とする坐禅もいいもんですよね。
私は永平寺の坐禅会に一回、総持寺の坐禅会に一回参加したことがあります。
今は「正法眼蔵」を読んで、自宅で朝晩毎日坐禅をしています。
まだまだ「正法眼蔵」は続きます。これからもよろしくお願いします。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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