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正法眼蔵 法華転法華 7

大鑑慧能禅師と法達和尚の問答は続きます。

さらに大鑑慧能禅師がその趣旨を説明するために偈(詩)を示し言われた。「心が迷うと、この宇宙に引きずり回される、自分自身がどういうものかということがわかってくると、宇宙を使いこなす事ができる。「法華経」を読むことが長年に及ぼうとも、自分自身が何であるかわからないならば、経典の説く意味を考え考えしているためにかえってそれが災いのもとになってしまう。あれこれ思い煩うことがなくなった心境はまさに正しい状態である。あれこれ思い煩う心境は決してまともな状態ではない。さらにあれこれ思い煩うとか煩わないとかを気にしないならば、真実を得た人の象徴である白い牛の引く車に永遠に乗る事ができる」と。

※西嶋先生解説
――白い牛の引く車とは、「法華経」の中に出てくる譬え話です。沢山の子供たちが、今にも崩れそうな家の中で夢中になって遊んでいた。ところがその家が、いつの間にか火事になって燃え始めたけれども、子供たちは火事に気がつかない。それを見ていた大人は、何とかして子供たちを外に連れ出そうとした。羊の車・鹿の車・牛の車を子供たちに与えるから家から出て来るように勧めた。最後に白い大きな牛の車を与えて、子供たちをその焼けている家から誘い出した。
羊の車・鹿の車・牛の車は、声聞・縁覚・菩薩という三種類の仏教の勉強の仕方を比喩的に指す。白い牛の車は、一仏乗つまり坐禅を指す――

そこで法達はこの大鑑慧能禅師の偈((詩)を聞いて、さらに大鑑慧能禅師に申しあげて言う。「法華経の中で、声聞(理屈で仏道を勉強しようとする人々)・縁覚(山などに入って靜かな境地で仏道を勉強しようとする人々)・菩薩(凡俗生活の明け暮れの中で仏道を勉強しようとする人々)が頭を使い尽くして様々な事を考えてみても、真実と一体になった人の智慧は想像する事ができないとある。いま凡人に対してただただ自分の心をつかむ事が真実を得た人の見方であり、考え方であると言われても、よほど秀れた素質の者でない限りはこの考え方に疑問を持ったり誹謗したりする事は避けられない。また、経典では、羊の車・鹿の車・牛の車という三種類の車を説明し、牛の車と白い牛の車という車の違いを説明しているけれども、この二つの車にはどのような差違があるのであろうか。どうか私のためにもう一度その説明をお願いしたいと思います」と大鑑慧能禅師にお願いした。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
            
質問
この「法華転法華と」いう言葉は、私も「法華経」を少し読みましたけれど、どこにもないから、これは道元さんのオリジナルな造語でございますか。

先生
いや、これは大鑑慧能禅師が法達という和尚との問答で、「法華経」を読んでいた時に、「心迷えば法華に転ぜらる、心悟れば法華を転ず」というふうに、法華転と転法華と二つに分けて言われた。それで道元禅師がその二つの言葉を一つに合わせて「法華転法華」という言葉をつくられた。だから道元禅師のつくられた言葉というふうに言えば、確かに「法華転法華」はそういえるわけだけども、その前に大鑑慧能禅師が法華転という言葉と転法華という言葉と両方使われたということになる。

質問
これ程までに道元禅師が、仏道修行のためには坐禅は絶対不可欠なものだということを色々な言葉を使って説いておられるのですが、現代の日本の仏教界を見ますと、あまり坐禅というものを他宗は強調しておりませんが、それはどういうところに根拠があるんでしょうか。

先生
これは、仏教そのものがすっかり誤解されていることの現れですよ。それで、仏教というのは何らかの思想で本を読めば書いてあると思っている。だからみんな一所懸命本を読んでるんですよ。それで「俺はわかった」というふうに、みんな自信を持って、仏教とはこういうものだということで説明しているわけだけれども、仏教思想というのは、基本はそういうものではないのです。頭の中で考え抜いてどうも解決のつかない問題を、さてどうしたらいいかというのが釈尊の持たれた問題であり、釈尊が説かれた主要な課題ですからね。

そのことを、現代の仏教をやっておる人々は、あまりはっきりとつかんでおられない。人間の頭というのは大体万能だから、仏教も経典を読んで、経典の意味が分かれば、わかるはずだと思っている。明治維新以降そういう思想の型の中で我々は生きているわけですから、これは仕方のないことだ。だから仏教というものがそういうものでないんだということが少しずつ世間にわかってきて、坐禅をやらなければ始まらないんだということがわかってくると、もっと盛んになるだろうと思います、それまではまたなきゃならん。 

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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