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正法眼蔵 法華転法華 5

法華転法華について道元禅師の説示は続きます。

青原行思禅師も南嶽懐譲禅も一所懸命に坐禅の修行をされ何を得たかと言えば、ありのままのこの世の中の姿が見えたということに過ぎない。したがって、青原行思禅師も南嶽懐譲禅師もまさに真実を得た人でなければ得られないところの究極をつかまれた姿であり、釈尊以来の正しい伝統を受け継いだ真実を得た人々である。そういう人々が得たものが真実であり、それが宇宙の運営の姿として転回されていたと言う事が出来る。

※西嶋先生解説  
――青原行思禅師の教えが天童如浄禅師に伝わり永平道元禅師に伝わって、今日我々のところに伝わっている。釈尊の教えは目に見えるものが「ありのまま」はっきり見えればそれでよろしい。それ以外のものは見える必要がない、また見えたらおかしい。したがって、青原行思禅師も南嶽懐譲禅師も、一所懸命に坐禅の修業をされて何を得たかと言えば、ありのままにこの世の中の姿が見える事が出来たと言う事に過ぎない。――

青原行思禅師・南嶽懐譲禅師が示された教えを、別の言葉で言えば「妙法蓮華経」と呼ぶ事もでき、日常生活を通して仏道修行をしていく人々を教える修行方法の原則とするのである。このような真実に貫かれたところの宇宙というものを諸法(様々の実在)という意味で、この世の中と名づけてきたのであるから、この素晴らしい宇宙と言うものを舞台として釈尊の説法も行われたのであり、この空間というものも存在するのである。途轍もなく大きな海も現実に存在し大地も存在するのである。

この様な宇宙というものがまさに現実の姿であり、目の前に展開されているところのありのままの姿である。ありのままに見えるということが真実を得られた方々の見方であり、釈尊の見方であり、この我々の住んでいる世界が永遠の姿を備えているということでもあり、現実そのものであり、釈尊の生命が永遠であるということとも同じ意味であり、深く無限の内容を備えたものである。

また別の言葉でいえば諸行無常(一切のものが瞬間瞬間の存在である)ということであり、この素晴らしい宇宙そのものということでもあり、釈尊に他ならないのであり、この宇宙を動かしていくということであり、宇宙が自分の力で動いていくことであり、正法眼蔵(釈尊の説かれた真実の眼目が存在するところ)であり、静かなこの上ない心境であり、現実の世界に姿を現して生きとし生けるものを救う事であり、人に対してやがて真実を得るであろうという保証を与える責任を負担する事であり、そうした立場に立つことである。

※西嶋先生解説  
――今日の書き出しのところで説かれたところは、この宇宙の姿がいかに素晴らしいかと言う事、そしてまたその素晴らしさというものは、そういう状態に入った人にはすぐわかる。その事は坐禅と言うような問題も当然出てくるわけであって、坐禅をやっている状態が仏の状態。だから坐禅をやる事は仏になるということ。坐禅をやっているということは、仏の状態が続いていると言う事である。そういう時に、この宇宙と言うものがいかに素晴らしいかという事が、理屈ではなしに体験として体に伝わってくる、体に現れれ来ると言う事が説かれている。そのことが一仏乗、仏としての境涯としてこの様な形で説かれていると言う事になろうかと思います。――-

※私の独り言。
坐禅をやろうと自分で決め坐禅を初めてから15年ぐらいたちますが一日も休むことなく続いています。自分で決めたことを実行できている自分に少しは自信が持てるようになり、あっちをうろうろこっちをうろうろすることはなくなりました。不満や愚痴や怒りは坐禅をする前に比べて本当に少なくなりました。90才を過ぎても一人で暮らしていた西嶋先生は「人間はいくつになっても自分が出来る事を自分でやるのが基本ですよ。そして自分で自分のことが出来なくなって自分の事を人にやってもらうようになったら只々有難うしかないんですよ」と言われました。


読んでいただきありがとうございます。


         
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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