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正法眼蔵 法華転法華 4

法華転法華について道元禅師の説示は続きます。

釈尊はたった一つの乗り物によって、仏道の全てがわかるという事を説かれるためにこの世に出られたのである。この様にたった一つの仏としてのあり方が仏道修行の全てである。真実を得た人と真実を得た人とだけが、この我々の住んでいる世界が実はありのままの姿(真実の姿)を現しているということを究め尽くすことが出来ると「法華経」には説かれているのである。その実体というものは仏の状態を経験した形でのみわかる。つまり坐禅をした人だけが坐禅の境地がわかるという形で伝わっていくのである。そういう仏としての状態というものがあればこそ、様々の真実を得られた方々や、過去七仏(釈尊と釈尊以前に出られた六人の仏)が、それぞれその境地を単なる理屈ではなしに、現実に自分の体を通して、自分の心を通して具現した姿であればこそ、そうした事態が完成されるのである。
  
西方インド、東方中国に至る全土は、いずれも様々の仏(真実を得た人)が生きていた世界と別ではない。インドで釈尊が出られてから、その後継者として摩訶迦葉尊者が第一祖になり、それから代々教えが伝えられて達磨大師が二十八祖になり、二十八祖の達磨大師がインドから中国に渡られて中国での第一祖となり、摩訶迦葉尊者から数えて三十三代目にあたる大鑑慧能禅師に至るまでの歴代の祖師方も、理屈でわかったと言う事ではなくて坐禅を通して仏の境地というものが全部すっかりわかってしまった状態が伝えられたのである。

西嶋先生解説
――仏道の教えというものは、勉強して少しずつ分かって、やっと全体が分かるというものではなくて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばせばすぐわかってしまう。「ああ、これか」ということを否応なしに感じ取ってしまうべきもの。それ以外に仏道というものはない。後の勉強というのはつけたり、その点では摩訶迦葉尊者も、達磨大師も、大鑑慧能禅師も全ての方が、坐禅を経験した瞬間に仏道とは何であるかということを身につけたということになる。――

仏道というものは理屈ではない。理屈が分かったとか分からないと言う問題ではなしに、仏としての心の状態、あり方、心の状態、体の状態というものだけである。修行を積んだならば、いつかは現れてくるというものではなくて、坐禅をすればすぐ瞬間的に現れるものである。死んだのちに自分の身につくというものではなくて、この現実の娑婆世界においてすぐ出てくるものであり、特別なところに出て来るものではなくて、自分のいるこの場所にすぐ出てくるものである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
宇宙を転動させるというのはどういう意味なんでしょうか・・・。 

先生
これは結局仏教の考え方というのは、人間とその人間を取り巻く世界とがあって、世界というものは人間があって、人間が動き回り、人間が働けばこそ世界があり、宇宙があるんだと、こういう考え方もするわけですね。だから普通は、宇宙とか世界とかというものがあって、その中の一粒として人間も置かれているという考え方をするわけですけど、逆に、人間があればこそ初めて世界もあるんだ、宇宙もあるんだと。そうすると、宇宙と言ってみても人間があっての宇宙じゃないかと言う考え方もあるわけですね。その点で、人間が動くことによって宇宙が初めてあるということを「転法華」というふうな表現をするわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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