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正法眼蔵 法華転法華 3

法華転法華について道元禅師の説示は続きます。

普賢菩薩の例を取るならば、その内容が頭では考えることのできないような性質を有するこの宇宙が宇宙自身の力で動いていることを成就し、深く大きく永遠の意味を持った釈尊の説かれた最高にして均衡のとれた正しい真実の教えをこの現実の世界に行き渡らせる事を実際に行うことであり、そのことは大・中、小の草や大・小の木をすべて同じように雨の恵みにあてて成育させるところの地所であり、それを潤すところの雨でもある。

頭の働きではわからないところのものが、すべて活発に運営されて具現されているということがこの宇宙の姿である。宇宙の運行は理屈ではわからない非常に神秘的な姿で実際に完成される状態である。普賢菩薩の宇宙に関する教えがまだ完了しない時期に、霊鷲山における釈尊が説法された仏教教団が出現した。普賢菩薩の世界(境地)と釈尊の世界(境地)とが全く同一のものである事の証として、釈尊の額にある白い毛髪の光が長い時代を超えて普賢菩薩の世界まで届いたのである。

釈尊が生きておられた時代の文殊菩薩の考えていた事が長い時代を経てから現れるとされている弥勒菩薩にすでに到達して、弥勒菩薩が真実を得るであろうという保証が与えられたのである。文殊菩薩の得られた真実も、長い時代を経て生まれて来るであろうとされている弥勒菩薩の得られる真実も全く同じものに他ならない。この様に考えてくると、普賢菩薩文殊菩薩その他の真実を得られた方々も釈尊のつくられた仏教教団も、これら一切のものが、最初も、中ごろも、終わりもよいという形で宇宙として転動し、それが真実を見抜く力を具体的に実現していくというふうに理解できるであろう。

※西嶋先生解説
「法華経」の経典の内容そのものが、架空の人々の話を通じて何らかの教えを説こうとされた面もあります。その点で「法華経」に出てくる方々の名前が全部実在の人物だというふうには見れない。文殊菩薩と言う様なものも、やはり実在の歴史的な人物ということよりは、物語の中で生まれた人物という見方の方が強い。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道というのは、本来あまり興奮するというのは好まないわけですね。

先生
ないね。それはない。

質問
熱中と興奮するというのは一脈通じているところがあるような気がするんですけど。熱中しすぎて冷静さを失うと言う様な・・・。

先生
だからやっぱり、覚めている状態というか、感情的にバランスした状態というのはどんな場合でも必要ですね。だからそういう点では、何か熱して熱くなるということではないということになりますわな。

質問
「シラケてる」というやつですか。

先生
ええ、そう。だから仏道の境地というのは、シラケてる面がありますよね。どんなに環境が厳しくても、それを素直というかありのままに見るという、どんなに見たくないようなことでも、目を皿のようにしてはっきり見ちゃうという生き方がありますね。ところが普通は人情がありますから、見て自分の気持ちに沿わないものはなるべく見ないわけですよ。普通は人情だからそうしますわな。だけどそれでは本当のものは見えない。だから如実に見るということは、嫌なものであろうと、いいものであろうと、実際の姿を見るという意味がありますね。それは感情的になってはやれないことでね。だから感情的でない状態というものが、やっぱり仏道にはどうしても基本にあると思います。

だからそういう点では、人付き合いの点からすると、ずいぶん冷たいなあという感じもあるんですよ。人が泣きわめいて「大変だ!大変だ!」と言っている時に、これを「実体はさてどうか」ということで見るわけだから。ただそれと同時に、そういう目で見ないと人生問題が解決つかん面もある。「ワァ、それは大変だ、大変だ」って泣きわめいたら、これは皆大騒ぎするだけで解決にはならんわけでね。大騒ぎをしている時に、冷静な目で「さて・・・」ということで、冷たく見る人もいなきゃならんわけでね。だからそういう点ではかなり非人情なところはあるけれども、しかしこれはしょうがないと思うんだな。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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