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正法眼蔵 仏祖 2

仏祖の巻、本文に入ります。

仏教教団の指導者が現にこの世の中に現れるということは、その人それぞれが自分自身を釈尊と同じ境涯に置いてその人格を大切にするということである。過去、現在、未来の仏(真実を得た人)というだけではなしに、すでに真実を得て仏になった人々もさらに向上を求めて努力してこられたということが言えるであろう。仏祖とは仏の姿を自分自身の体、心にしっかりと保持し、それを礼拝しまたそれにお会いするという関係にある。代々の祖師方も釈尊と同じ人格を現実のものとして、それに住まい、それを保持して今日に至ったのであり、その釈尊と同じ人格と言うものを礼拝し、実際に体験しながら今日に来られたのである。

毘婆子仏大和尚・尸棄仏大和尚・毘舎仏大和尚・拘留孫仏大和尚・拘那含牟尼仏大和尚・迦葉仏大和尚(過去七仏)・釈迦牟尼仏大和尚・摩訶迦葉大和尚・阿難陀大和尚・商那和修大和尚・優婆毬多大和尚・提多迦大和尚・弥遮迦大和尚・婆須密多大和尚・仏陀難提大和尚・伏駄密多大和尚・婆栗湿縛大和尚・富那夜奢大和尚・馬鳴大和尚・迦毘摩羅大和尚・>那伽閼剌樹那大和尚(竜樹尊者)・伽那提婆大和尚・羅睺羅多大和尚・僧伽難提大和尚・伽耶舎大和尚・鳩摩羅多大和尚・闇夜多大和尚・婆修盤頭大和尚・摩奴羅大和尚・鶴勒那大和尚・獅子大和尚・婆舎斯多大和尚・不如密多大和尚・般若多羅大和尚・菩提達磨大和尚(インドから中国に仏道を伝えた)・大祖慧可大師・鑑智僧璘大和尚・大医道信大和尚・大満弘忍大和尚・大鑑慧能大和尚・青原行思大和尚・石頭希遷大和尚・藥山惟儼大和尚・雲巌曇晟大和尚・洞山良价大和尚・雲居道膺大和尚・同安道丕大和尚・同安観志大和尚・梁山縁観大和尚・大陽警玄大和尚・投子義青大和尚・芙蓉道楷大和尚・丹霞子淳大和尚・眞歇清了大和尚・天童宗珏大和尚・雪竇智鑑大和尚・天童如浄大和尚。

自分(道元)は1225年の夏安吾の時期に我が師天童如浄禅師に参見し随侍して、この仏教界の諸先輩を礼拝し、おし頂くことを徹底的に学んだ。そしてそれは真理を体得した者が心理を体得した者に対してのみ行うところの伝承であった。

※西嶋先生解説
この天童如浄大和尚(天童如浄禅師)が道元禅師の師匠にあたるわけです。だからこの天童如浄大和尚の次に当然永平道元大和尚と言う名前が並ぶわけです。この様に道元禅師は、仏道と言うものは人から人へ伝えられるものだという考え方が非常に強かった。宗教とか思想と言うものは、文字や本を読めばわかるというのが普通の考え方としてあるけれども、仏道と言うのは、実際の体験の問題、生活の問題だから、単に本を読むだけでは本当の教えは伝わらない。その点では人と人があって、人格から人格に教えが伝わるということが必要なわけです。それから仏道の場合には、坐禅と言うものがあって、坐禅をやることによって人間が同じような体の状態になり、また心の状態になるということが、仏道を身につける非常に大切な方法だということも説かれているわけです。

           「正法眼蔵仏祖」
           1241年旧暦正月3日
           観音導利興聖宝林寺において書記し衆僧に説示した。 



          ―西嶋先生の話―
                       --つづき 

また釈尊は三毒と言う事を嫌われた。三毒とは貪欲・腹立ち・愚痴。この三毒を避けなければならんと言われた。なぜこの三毒を嫌われたかと言うと、この三つの状態に陥った時には智慧がどっかへいってしまうからである。例えば欲張っておる時と言うのは、智慧はどっかへいってしまう。五億円の札束を眼の前に積まれて、喉から手が出るほど欲しいと思うと、「まあやめておこう」と言う気にならない。「いやこれは有り難い。次の総選挙では俺は勝てる」ということになると「はい」と言うわけで懐の中に入れてしまう。欲が出てくると智慧がなくなってしまう。

それからまた腹を立てている時も、智慧はなくなる。街で時々けんかをしている人を見るけれども、赤くなったり青くなったり、よく大の大人がこんなふうに一所懸命やれると思うくらい、夢中になってやっている。はたの人がどう思っているかなんてことはさっぱり見当もつかない。そういう場合も智慧というものがどっかへ行ってしまっておるわけだ。

それから過去の出来事を年がら年中後悔しておるという場合もある。もう過ぎ去った事と言うのはどうにもならない。だから、今日が初めて、今が初めてと思って、今の瞬間を一所懸命やるというのが本当の生き方である。人間はよく考えてみれば、それ以外に生き方はない。過ぎ去った事を考えて「ああ、あのときはああすればよかった、こうすればよかった、俺はどうも運が悪い」と。あるいは先の事を心配して「こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう」なんてそんなことを心配しても、先の事と言うのはどうにもならない。人間には現在何をやるかと言う力しか与えられていない。
                                
ゆっくり考えてみれば、そのことはよくわかるわけだけれども、中々そういう考え方と言うのは身につかない。だから「今にこうしたらいい、ああしたらいい」というふうな先の事ばかり考えている場合もあれば、「もし、こうなったらどうしよう」と言う様な事ばっかり心配している生き方もある。そうかと思うと済んでしまったことを「ああ、あの時はああすりゃよかった、こうすりゃよかった、俺はついてない」というふうなことで「もうだめだ・・・」というふうな。

人間「もうだめだ」なんてことは絶対にないのであって、とにかく現在ピンシャン生きてるんだから、「よしこれからだ」ということで考えていけばいいんだけれども、我々は普通よく「ああ、もうだめだ、これでお終い」なんて言う。そうかと思うと「これが最高だ」なんて言って、ニヤニヤしているうちに、スッテンコロリンと言う様なことだってあり得る。その点では我々の人生と言うものは実に変化に富んでいるわけだ。だから「平家物語」の最初のところに「祇園精舎の鐘の声、諸行無上の響きあり」というふうな名文句も出てくるということでもある。

だから調子の悪い時に悲観する必要はない。また反対に調子のいい時に有頂天になるということ、これも危険な話だ。だから調子のいい時にはあんまり喜ばないで、調子の悪い時には悲観しないでと言うのが、人間のきわめて普通の生き方である。ただ中々そういうことが智慧として出てこないという場合が間々ある。こういうことが我々の日常生活の現実ということにもなろうかと思われます。


読んでいただきありがとうございます。


  
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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