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正法眼蔵 山水経 25

山水(自然)について仏教の立場でどう考えたらいいかという道元禅師の説示は続きます。

水と言うものに関連して言えば、この世の中に水が存在するという関係だけではなく、水の中にも、様々な世界が内在すると言う関係でもある。そして、水の中にのみ世界が内在すると言う関係だけではない。雲の中にも生物の世界がある。気体の中にも生物の世界がある。化学変化の中にも生物の世界がある。固体の中にも生物の世界がある。宇宙の中にも生物の世界がある。一本の草の茎の中にも生物の世界がある。一本の杖の中にも生物の世界がある。

我々の住む世界にある様々な物質も、単に常識的に眺めただけのものではない。そこには複雑な世界があり複雑な関係にあるということを知らなければならない。その様に様々の生物の世界があるということは、またそこが同時に真実を得られた方々の世界であるということもいえる。この様な理論を十分に勉強すべきである。したがって水は本当の竜(真の行為者)が住むべき宮殿である。

水は流れるとか下に行くというだけの性質のものではない。もし水は流れるだけの性質のものだと考えるならば、流れると言う言葉が水を誹謗することになる。なぜかというと、流れるという言葉だけが水の性質だという見方をするならば、流れないという表現もあり得る。そういう点では流れるとか流れないとかと一方的に水というものを限定して決めつけるという誤りを犯すからである。

水は水として我々が現在、現実に見ている姿そのものである。水は水としての性質を持っている。だから抽象的、常識的に水の一部の姿だけを見て決めつけるわけにはいかない。水は流れると言う性質だけを取り出して水と言うのではない。この様に、単に水に関連しても水が流れるとはどういう事か、水が流れないとはどういう事かというふうに現実をよく勉強する事によって、この我々が住んでいる世の中の一切がどんな状況になっているかということの勉強がたちまち出来上がるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「無自独悟」というと、自分と他がなくなるという話はよく聞くんですが、どうもその自分と他がなくなるということがよくわからないんですけれども。

先生
それは、たとえば〇〇さんが〇〇さん自身になるということですよ。自分が自分として生きるということです。それでは自があるんじゃないかと言うと、自他と言うのは頭の中で考えて作ることですよ。だから自分が夢中になって一所懸命自分の生活をしておる時には、自他はないわけです。ところが余裕ができると、これはおれのもの、これは人のもの、俺のものがなるべく増えて、人のものがなるべく減るようにと言う考え方が出てくるわけですね。それからまた、それじゃいけないと思って、人のものを増やして、自分のものを減らそうという考え方もあるけれども、これも余計な事ですね。

自他と言うのはそういうけじめがなくなって、〇〇さんが〇〇さん自身として堂々と生きるというのが、無自ということだ。「無自独悟」と言う意味わね。そういう点で、自分と他人のけじめがなくなるということだ。それは現実と一体になるということだ。現実に徹するということです。それの一番端的な状態は、坐禅をしておる時の状態、自分も他人もない状態ということです。

質問
そうなってくると、共産主義ということになってきますか。

先生
共産主義と言うのは、十九世紀の学者が言い出した考え方が基礎になってるわけだからね。

質問
自分のものも人のものも皆ひっくるめて・・・。

先生
いやいや、物の事を言っているんじゃない。と言うのは、自分の財産、人の財産、それが全部同じだと言っているわけではない。ただ、自分自身と言うものと自分以外のものとけじめをつけて使いわける必要はないと。現実と言うものはもっと渾然一体になったものだから。それは自分の財布と人の財布を一緒にするということではない。自分の財布、人の財布は別々であっても、自分のものは一文も出さないということでは社会生活はできないし、人のものでもとにかく隙があれば取ってやれということでも、社会生活は成り立たないわけです。そうすると現実にそってどう動くかということだけが残るのであって、人と自分とのけじめだけが問題で、それが大事だということではないわけです。

質問
思想としましては、共産主義に近くなりゃしませんか。

先生
いや、共産主義と言うのは、そういう点では、今日の様に各人が財布をはっきり持つようになったという時代に、その財布を一つに集めようというんだから、これは十九世紀以降の思想ですよね。だからそういう点では、自分のもの、他人のものと言っても、一応のけじめで絶対のものではないというのが仏道思想です。だから何でもかんでも一緒にしちゃえということとも違う。けじめがあって構わないんだけれども、それが絶対のものではないという考え方なのです。…よろしいですか。



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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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