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正法眼蔵 山水経 23

山というものについて道元禅師の注釈は続きます。

帝王の政治による力というものが及ぶところは、山にまでは達してない。山の中に入っている賢人や聖人を無理に動かしてどうこうさせるということはない。山と言うものが一般の俗世間とは別の世界であるということを知ることが出来る。崆峒華封の時代には、黄帝と言う皇帝が、山に住んでいた広成と言う人に教えを請いに伺った際には、膝で歩いて頭を地に付けて礼拝したと言われている。

また釈尊はかつて自分の父、国王が住んでいた宮殿から抜け出して山に入ったけれども、それによって国王である父が山を恨むということはなかった。国王である父は、山にいて王子を教えた人々を不思議ともおかしいとも思う事はなかった。また釈尊の十二年間の修行というものも、ほとんどが山において行われ宇宙の秩序における最高の権威者となるべき運命を開かれたのも山においてであった。

銘記せよ。
山は一般の人間が住むべき領域ではなく、特別のものが住む領域でもない。人間並みの考え方で山と言うものを想像したならば誤りである。そしてもし、山が流れるとか流れないとかと言う問題に関連して、人間的な考え方を持ち出して流れるということを考えるならば疑いが起きるかもしれないけれども、山そのものが人間世界を超越した存在であるから、人間的な考え方を乗り越えた考え方で考えるならば、必ずしも疑って見なければならないと言うものを含んでいない。

※西嶋先生解説
――この巻で書いてある事は、自然というものが、非常に流動的なものであり相対的なものである。それと同時に、言葉では表現する事のできない何かを持ったものである。そういうことが、「山水経」の中で説かれている。だから自然というものは、そういう意味で仏教の教えがそのまま書き込まれた経典としての意味を持っていると、そういう見方で自然というものの性質を説かれておられる。こういうふうに見ていいと思います。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お釈迦様が明星を見て悟りを開かれたという話がありますね。でもそれはいっぺんに急に悟り、宇宙秩序が全部パッと分かったわけではないと思うんですが。やっぱりずうっと、だんだんわかってきて、修行中に日々進歩していって、ある日そういうところに来られるんだと・・・。

先生
その関係はこういうふうに考えていいと思うんです。坐禅をした時には、もう真実と一体になっている、仏になってると。ただ我々はそう感じないわけです。ただ坐禅をずうっと続けて長いことやっているうちに、ある日「あ、これでいいんだ。そんな悟りだとかなんだとか、余計なことはどうでもいいんだ。坐禅してりゃこれでいいじゃないか。坐禅をして背骨を伸ばしてジ-ッとしてる、この境地以上のものはないじゃないか。これ以外に何もいらないじゃないか」ということを感ずる時があるわけです。

お釈迦様が明星を見ながら感ぜられたことも、それだというふうに考えていい。つまり、それまでは、何とか悟りたいと思って、苦行をしたりして苦心惨憺したわけだけど、坐禅をしておるうちに「お、これ以上のものはないじゃないか」ということに気がついた。そのことは、「オギャ」と生まれた時から。自分はそう道に外れていなかったと、自分のレ-ルを走ってたということにやっと気がついた、人間誰でも自分のレ-ルを走ってるもんだということに気がついたと、そういうふうに捉えていいと思うんですね。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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