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正法眼蔵 山水経 22

山というものについて道元禅師の注釈は続きます。

永嘉大師が「証道歌」の中で「無限に苦しみが続く原因となる様な行動を招かない事を願うならば、釈尊の教えを誹謗してはならない」と言われた。この言葉を、皮・肉・骨・髄に銘記すべきである。肉体・精神・周りの世界の一切のものに銘記すべきである。この我々が住んでいる空間に銘記すべきである。この我々の生活を構成している物質の全てに銘記すべきである。樹や石のような自然にも銘記すべきである。田や里のような社会事象にも銘記すべきである。

一般的に言って山は国の領土の中にあるものではあるけれども、本当の意味で誰のものかと言うと、山を愛する人のものである。山がその中に住んでいる人間に対して愛情を注ぐことによって、聖人や賢人や徳の高い人が山を慕って山に入るということもある。そしてまた聖人や賢人が山を愛し、山に住むときに、山が今度は聖人や賢人のものになってしまう。そして、山と住む人とが一体の状態になればこそ、木も茂り、岩も高々と聳え立つのである。そこに住む鳥も獣も優れた性質を具えているのである。そこに住んでいる聖人や賢人の徳によって山は山としての価値を示し、また鳥や獣は自然の姿を現わすという相互の関係が成り立つのである。

銘記せよ。単に人間が山を好むとか好まないとかと言う問題だけではなしに、山そのものが聖人や賢人を好むと言う逆の流れもある。一国の帝王が山にわざわざ行って、そこに住む賢人や聖人を礼拝し教えを請うという事が昔からの優れたしきたりである。帝王は民間に下れば一国の帝王であるから誰に対しても礼拝は受けることはあっても礼拝することはないのであるけれども、山に行った場合に、一国の帝王であっても教えを請う場合は、その山に住んでいる聖人や賢人を師匠として帝王みずから礼拝するのである。



         西嶋先生にある人が質問した―

質問
大変俗っぽいことをお伺いします。お墓を買うか買うまいか今迷っている人がいるんです。 その人が私にどう思うというんですけど、困っちゃってどうしたらよろしいでしょうか。

先生
それはやっぱり、ご本人の判断が一番最初ですよね。

質問
お墓なんてやめればいいんじゃないか、という判断は間違っていますか。

先生
いや、間違っておる、間違っておらんという事は、第三者がどうこう言うべき事じゃなくて、ご本人がどう判断するかという事が一番優先的な基準です。

質問
その判断に迷っているから問題なんです。

先生
だから迷っているうちは、迷ってらっしゃいという事でしかない。まだ結論が出なかったら、どうぞ結論が出るまでお迷い下さいという事にならざるを得ないと思います。

質問
で、そんならキリスト教になればそんなもの要らないんじゃないかなんて、そんなこと言ってるうちはだめですね。

先生
(笑いながら)ですからその辺はね、ご本人が色々と考えて結論が出るまで考えるという事になると思いますよ。 だからご本人としては、みなさんお墓を用意してるから自分も用意したいけれども、いかにも二百万、三百万は高すぎる。だから誰かが、そんなものは要りませんよと言ってくれないかなと、こういう期待もあるのかもしれないけれど、中々第三者がそれに対していりませんというふうには・・・。

質問
まあ、言ってはいけませんね。

先生
まあ、余計なお世話という事になるわけですね。 だから各人が余計なお世話をしないほうがいいと、こういう事はあると思います。
  

読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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