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正法眼蔵 山水経 21

山というものについて道元禅師が注釈されます。

山は過去、現在という時間の区別を超越して、昔から偉大な聖人方が住んでいた場所である。賢人も聖人もいずれも山を自分の住みかとして生活してきた。山を自分の体とし心としてきた。賢人や聖人が山に住んでいたればこそ、その山は山としての価値を示し現実としての意味を持っていたのである。山には沢山の聖人や賢人が入り集まっているだろうと想像するけれども、実際に山に入って見るとほとんど人に会わないと言うのが山の実情である。ただ木が生い茂っていて、山としての生き生きとした姿を示しているに過ぎない。

そして人が山に入った場合に山にすっかりのみ込まれてしまって、その入ってきた足跡は残らないものである。山の外側にいて山を眺めて「ああ綺麗だなあ」と感じている時期と、実際に山の中に入って山と直面した時点とでは、山の様子は非常に異なっている。人間が「山は流れるはずがない」という常識的な考え方、あるいは確かに流れていない、動いていないというふうな見方も立場の違う竜や魚が眺める場合と同じではない。人間が自分の世界に安住している場合でも、人間以外のものは、その安住に疑問を持つこともあり、また疑問を持たないこともあるなど立場が違えば見方も非常に違ったものになる。

山が流れると言う言葉についても、常識的に考えてそんなはずはないという考え方ではなしに、釈尊以来代々伝えられてきた教えをしっかり身につけた人々について学ぶべきである。驚いたり疑ったりして、どうしていいかわからないで時を過ごしてしまう事があってはならない。ある場合、それを取り上げれば、確かに山は流れているという実感もあるし、また別の機会にそれを取り上げてみるならば、山は流れていないというふうな実感もある。山に限らず、一切のものは、場合、場合によってその見られ方は様々である。ある場合には流れると見られ、ある場合には流れないと見られる。この様な参究を行わない教説は、決して釈尊が説かれた正しい宇宙の秩序に関する教えではない。



            ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
一番の世の中の始まりでございますね、それは仏道ではどういうふうに考えてますか。

先生
それは「人知の及ぶところにあらず」というのが仏道の解釈です。この世の中の初めがどうなっていたかというふうなことを、よく物知り顔に論議するけれども、「そんなことはわからんことだ」というのがお釈迦さんの考え方です。だからお釈迦さんの時代でも、そういうことを問題にして、お釈迦さんに質問をして問答を仕掛けた人がたくさんいるわけです。その時にお釈迦さんがどうしたかと言うと答えなかった。その答えなかったことの意味は、人間の頭で及ぶことのできないものを論議しても始まらんじゃないかと言う考え方です。

そのことを西洋思想の中で非常にはっきり言ったのは、カントと言う学者。カントと言う人は哲学を形而上学とそれ以外の哲学に分けて、形而上学と言うのは人間の知恵ではわからん問題であるからそれを論議するのは意味がないということを非常にはっきり言った。形而上学と言うのはどういうことかと言うと、この世界が有限であるとか無限であるとか、どっちが本当かと言う風な問題が形而上学。そういう形而上学は人間の知恵では、人間の頭ではわからんことだから、論議しても始まらないということを非常にはっきり主張したわけです。

それと同じことが釈尊の思想の中にもあったと見えて、そういう問題を持ち出して「これはどっちでしょか」と言う質問を受けると、黙って答えなかったというふうに伝えられておるわけです。だから仏道においてそういう問題についてどういう回答をするかと言えば、それはわからんことだから人間が論議しても始まらないということが仏教における考え方だというふうに見ていいと思います。

※私の独り言。
釈尊を拝してマ-ルンクヤと言う弟子が言った。「世尊は世界の常・無常、世界の有辺・無辺等の問題については、何事も説かれず、問えば答えを拒まれる。私はそれが不満であって耐えられない。世尊は言った。「マ-ルンクヤよ、世界は常住であるとか、無常であるとかの見解があっても、清浄の行が成る道理はない。むしろこれらの見解があるところには、依然として生老病死、愁非苦悩がとどまり存ずるであろう、私は、この現在の生存においてそれらを征服することを教えるのである。」と。

        ―南伝中部経典摩羅迦小経―


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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