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正法眼蔵 山水経 20

「水は地に降ってきて川をなす」に関連して道元禅師の注釈は続きます。

この様な形で単なる水に関連してみても、本当の意味での水と言うものを現実的に把えなければならない。理屈ではなく水の実態というものが直観的にわからなければならない。

※西嶋先生解説
――この事が仏教というものの一つの意味。仏教では非常に直観的なとらえ方と言うものを大事にする。この世の中をどう理解するかと言うと、結局は理屈ではなしに、体と心をきちっとして、その時に映じるものが本当のこの世の中ということになるから、それは体と心を調整することによぅてしかつかまえることが出来ない。また体と心が調整されれば、理屈は何にもわからなくても、この世の中とはどういうものかということが直観的にわかる。理屈抜きでわかる。――

理屈ではなしに水の実態が分かってこないと、凡夫の体や心から脱け出したと言うわけにはいかない。釈尊の説かれた世界というものをどこもかしこも究め尽くしたと言う事にはならない。そのことは凡夫の住んでいる世界さえ分かっていないということになる。
だから人間の世界では、海の中身、川の中身と言うものが水だと理解しているけれども、竜や魚の世界では水を宮殿と考えているわけだから、竜や魚にとって水とはいったいどんなものだろうと人間が想像しようとしても、それは中々難しい。どんなものを水と考え、どんなものを水として使っておるのか、想像しようとしてもそれは中々できない。だから人間が、これが水だ、これが水だ、これが水だと思い込んでいるところのものが、竜の世界でも魚の世界でも水だというふうに無理に考えてみても中々それは通らない。

したがって、仏道の立場から水というものを勉強しようとするならば、人間の立場だけから水を考えていても本当のことはわからない。さらに一歩進めて、釈尊の世界における水を勉強せよ。釈尊が使われていた水は、一体どんなものであったかと言う事を勉強してみるべきである。釈尊の住まわれた世界においては、一体水と言われる様なものがあったのか、なかったのかそういう立場からも勉強してみるべきである。

※西嶋先生解説
――釈尊の世界における水はどうやったら勉強できるかと言うと、自分の体を調整し、自分の心を調整する事、体が調整され、心が調整されれば、釈尊の立場から見て水と言うものがどういうものかということが、理屈ではなしに直観的にわかる。―― 



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
人間は一所懸命に生きる事により、苦しみとかそういうものから脱却するといいますか、人間として毎日毎日を一所懸命に生きる事が果たして出来るかどうか、いかにも難しいと言う関係にもあるように思えますけれども。そういう点はどういうふうに・・・。

先生
そこでね、坐禅に頼る事を釈尊は勧められた。人間が心がけをよくして一所懸命やろうなんていっても人間はそれ程強くないんですよ。だから坐禅をして行いの世界の中に自分を置いて、その状態を頼りにして生きていくと言う事になる訳ですから、釈尊の教えは、坐禅に頼って坐禅を毎日やって人生問題のすべてを解決すると言う事が基礎にあると思います。

質問
現実が変わり、世の中も変わっているけれども、固定観念を持っていると、中々切り替わりが難しいと言う事はいくらでもあると思いますが、これはどういうふうに対処したらよろしいんでしょうか。

先生
固定観念そのものが問題なんであって、固定観念から離れる事が人生の生き方だと言う事になる。時々刻々に事態は変わっているんだから、その時々刻々変わっている事実を素直に受け入れる必要がある。世の中はこういうものだと決め付けた場合には、現実と食い違いが出て来る。
    
質問
坐禅をすると、そういう点の解決はかなり役に立つわけですか。

先生
うん。だから坐禅をやっていると、固定観念と言うようなものができにくいんです。出て来ないんです。時々刻々に事態が変化しているだけですから。決まりきったものがないと言う事を坐禅をしていると感じざるを得ないという面があります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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