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正法眼蔵 山水経 19

「水は地に降ってきて川をなす」に関連して道元禅師の注釈は続きます。

仏教で無想天(ものを考えない素晴らしい境地)、あるいは 阿鼻獄(無限の苦しみを受ける地獄)と言うものを考えているけれども、無想天が上で阿鼻獄は下と決めつけるわけにはいかない。こんな素晴らしい世界はないと感じる時でも宇宙の中の出来事でしかない。地獄の中にいるような苦しみもまた宇宙の中の出来事でしかない。したがって水についても、その見るものの立場によって色々である。たとえば竜や魚が水を見る場合には、自分達が住んでいる動かない途轍もない素晴らしい宮殿だと考えるだろう。それは人間が人間の世界で素晴らしい宮殿を眺めて、その大きさや堂々とした姿に関心しているのと同じ事であろう。

竜や魚にとって、水は非常に不安定で常にどこかに流れて行ってしまうという事など考えずに生活しているのであろう。もし傍で見ている人間が、竜や魚に向かい「お前が現に宮殿として眺めているのは、実は流水なのだ」と言ったとしよう。それは我々人間が山は流れるものだと言う言葉を聞いて驚くのと同じようなものであって、竜や魚も即座にびっくりして首を傾げるであろう。しかし次には、竜や魚が宮殿の手すりや階段や戸外の柱は流動的なものであって、固定的なものではないと言う主張をそのまま肯定する場合もあろう。この様な考え方を静かに何回となく考えて、またそれを保持し続けていく必要がある。

※西嶋先生の解説
ここで書かれていることは、我々の常識からするとかなり難しい。難しいと言うか、普段はこういうことは感じない。我々の住んでいる世界は、実に変わりやすいという事は日常生活をよく見てればすぐわかること。数十年前日本が空襲で焼け野原になった時、焼かれなかったところは別として、東京のほとんどが全く焼け野原になってしまった。その時には、今日の様に鉄筋コンクリ-トの建物が建ち、車が走り回ると言う時代はとうてい想像できなかった。

その事は、何にでも言える事で、十年もたつと、赤ん坊も十歳になってしまう。そうすると学校へ行って、帰ってきて「お腹がすいた」と言ってみたり、親に反抗してみたり、色々な変化がある。そういう点では商業の世界も同じ。去年売れた商品が、今年も必ず売れるはずだと言う訳にはいかない。売れない方がおかしい、買わない方がおかしい、なんて言ってみても、売れなければしょうがない。いくら積んどいても、買ってくれなきゃどうにもならんということになると、商売の方も、何が買ってもらえるかということで考えていかざるを得ない。小売店としては、買われそうなものを選んで店に並べて置く。売れたら補充するというふうなことになる。卸商としても頭の中だけで考えて、これは絶対に売れる、売れなきゃおかしい、どうしても売って見せるということで無理に小売店に売り込んでみても、本当の最後のお客さんが買ってくれなければ何か月か経つと戻ってきてしまう。

それでは商売にならないと言う問題があるから、我々の人生の全てには、こういう流動的な非常に捉えにくい問題があるという事を常に考えてなきゃならん。ところがこういう考え方はわりあい世間では一般に行われない。たいてい決まり文句で「これが本当ですよ」と言う様なことを大抵の人が言う。そうすると、それが丁度当たる時もある。「いやあ、確かにあれは当たった」と言う様な時もあるが、世の中というのは必ず表と裏とがあるから、表に適用されて丁度当たった理論と言うのは、裏が来ると全く反対で失敗の原因になってしまう。
                                       
だからどういう場面が来ても常に適合して常に役立つ理論というものは、流動的で二つの面を必ず持っていなきゃならん。 ところが、たいていは片面だけの理論で押そうとするから、いい時もあるけれども悪い時もあるというのが世間における殆んどの実態。宇宙にはどうにもならない原則というものがあるから、 一つの考えで「やれ行け、それ行け」とどんどん行って行けるまではいい。しかし、どうしても行けない時期が必ず来るもの。 その時に、もう一歩先の理論を知っておれば、この辺で方向転換しなくてはいけないなと言う事で方向転換するわけだけれども、そういう余裕がなければ、岩があろうが何であろうと、ゴツン、ゴツンと頭をぶつけて「通れない方がおかしい!」と言う様な事で、結局立ち往生してしまうという事もあり得る。

そういうことからすると、この現実の世界に通用する理論と言うものが確かにあるんだけれども、その理論というものは単純ではない。 かなり立体的な複雑な理論。 その立体的な複雑な理論を説かれたのが釈尊ということ。だから釈尊の教えというのは難しいけれども、身についてしまうとどういう場面にでも適用ができる。 そのことが、我々が「正法眼蔵」を勉強しておる事の理由でもある。そのことが、我々が坐禅をする事の理由でもある。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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