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正法眼蔵 山水経 18

「水は地に降ってきて川をなす」について道元禅師の注釈は続きます。

たった一粒の滴の中にも仏の世界と言うものは間違いなくある。 無限の仏の世界が一滴の水の中にもしっかり入り込んでいる。仏の世界があって、そこに水があるという関係でもない。水があって、そこに仏の世界があるという関係でもない。水があるということは、過去・現在・未来という時間の変化とは関係なしに、現実の事実としてここにある。また、それは宇宙の一部だというふうに頭の中で考えてつかまえる事の出来るものではないけれども、現在、目の前に水というものがある、絶対の事実としてある。

仏道修行者のあるところには必ず水も存在し、水のあるところには必ず仏道修行者も現に実在する。そこで仏道修行者は例外なしに、水を取り上げてそれを自分の体とし、自分の心としている。ものを考える場合にも、やはり水と言う物質的なものを基礎にしてものを考えざるを得ない。水は上に上ることはないと言う考え方は、仏教関係の本にも仏教関係以外の本の中にもない。水のあり方は、上下、縦、横とあらゆる方角に、ある時は蒸発しある時は雨となって降り、自由に動いていくのである。しかし、釈尊の説かれた経典の中で、火や風は上に上がり、地や水は下に下るという説き方もあるけれども、経典の中で上下と言う事が書かれている場合には、釈尊の説かれた教えの中における上とか下とかというものを考えて勉強しなければならない。

仏教の考え方では、上、下は、初めから決まっているわけではない。水の流れていく方を下と仮に名前をつけ、下には必ず水が流れていかなくてはならないと決めつけているわけではない。火や風が上がっていくところをたまたま上と仮に名前をつけただけである。上に必ず火が上がっていくものだと決めつけるわけにはいかない。この我々が住んでいる宇宙というものは、必ずしも上、下とか、四方の隅とかと言う狭い範囲の基準だけで把え得るものではない。人間が決めた基準とは無関係に、宇宙は存在するのである。我々の住んでいる世界は、地・水・火・風・空・識等で構成されている。それらのものを基に我々の日常生活は出来上がっているのである。我々は、狭い範囲の中でたまたま我々の住んでいる世界をつくり上げているに過ぎない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
前に習ったのと、それから今晩習ったの違うんですが…、これが道元禅師の考え方なんでしょうか。

先生
「正法眼蔵」にはきわめてはっきり矛盾している考え方が何回も出て来るんです。それをどういうふうに総合して理解するかと言うのが四諦論です。だから四つの考え方と言うものが仏道にはあって、それの組み合わせで全体の説明が行われている。だからそのうちの二つを取り上げて、こことここは矛盾してるじゃないか、こことこことおかしいじゃないかと言うふうに考えていったのでは仏道と言うものが理解できない、そういう関係があると思いますね。  

※四諦について西嶋先生の解説  
苦諦とは、今日の言葉で言えば、理想を中心とした考え方であります。 なぜかと言いますと、我々は普通こうしたい、ああしたいと言う理想を持っている。その理想を実現しようと一所懸命努力する訳であります。しかし、理想と現実は常に食い違っていると言う事実がある訳であります。したがって、我々が目的に到達しえない、思いどおりにならない事で苦しむ事の一つの原因は、理想を頭に描いて、現実との食い違いを認識しないで、人間の生き方を決めると言うところにあるという事情から、古代インドでにおいては「苦諦」と言う表現で表わしたと見られるわけであります。

集諦とは、物質の集合と言う事であります。我々の住んでいる世界は、理想と言う面からも眺める事が出来けれども、逆の面からするならば、単なる物の集りでしかないと言う見方も出来るわけであります。こういう見方からすると、人間といってみても、体細胞の集まりで血管が通っていて血液が流れている、息を吸う事によって酸素が血液の中に流れ込んで、それが脳細胞へ行って、脳の活躍を促す、結局は物の塊でしかないと言う考え方もある訳です。 そういう考え方が集諦と言う考え方です。こういう考え方も非常に大切でありまして、今日我々は西洋文明の恩恵に浴しておるわけであります。その西洋文明の基礎になる一つの考え方、自然科学的な考え方が「集諦」と言う考え方と同じ基礎にあるという理解も出来るわけであります。

滅諦とは、理想だけを中心に考えれば我々の人生は苦しくてしょうがない。そうかといって、物の集りだと考えてしまうと何のために生きているのか分からなくなる。一方、我々の日常生活を見つめるならば、今何かしなきゃならんと言う具体的な現在の問題がいつも頭の上にのしかかっている。だから人生を考えていく場合に、夢の様な事を考えている訳にもいかないし、そうかと言って投げ出していく訳にもいかない。今与えられた境遇で、いかに一所懸命やっていくかと言う事に尽きると言うのが「滅諦」と言う立場の主張であります。その点では、理想も現在の瞬間においては何処かへ消えていってしまう。 それからこの世の中の基礎は物質だといってみても、今何をやるかと言う問題ではそんな考え方も何処か消えていってしまう。いまの一瞬一瞬をいかに生きるかと言うことだけが問題になってしまう。そう言う考え方が「滅諦」であります。

道諦とは、苦諦・集諦・滅諦と言ってみても、所詮は考え方の問題であり理屈でしかない。 我々が日常生活において具体的に生きていくためには、間違いばかり起こしていたのでは何にもならない。そうすると我々の日常生活、滅諦の生き方の中で、あれこれと苦労をしていく際にそれが間違いのないものでなければならない。間違いのない日常生活と言うものが「道諦」と言う考え方の基礎であります。だから仏道修行の最終の段階は、日常生活をコツコツとやりながら、しかも間違いに陥らないと言う事が「道諦」と言う考え方の主張であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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