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正法眼蔵 山水経 16

釈尊が言われた
この世にあるすべてのものは、ありのままの存在でありながら常に変化している。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
この言葉からわかる事は、一切のものはありのままの姿を示していて、何ものからも束縛されてはいないけれども、それぞれの場所に坐を占めている。そのことは、机は机らしく、畳は畳らしく、壁は壁らしく、柱は柱らしくあるからこの世の中が無事に保たれている。ところが人間は、自分自身の考え方を中心にして様々なものを見るから、水を見た場合でも水は流れるものと決めつけて考える。そして、その流れ方にもいろいろな種類があって様々に流れるという事も、人間の立場から見た一つの見方でしかない。

水は地面を流れる事も勿論であるけれども、雲のような形で空を流れるという事もある。水は蒸発して空の方に上がっていくという場合もあれば、またそれが雨になって下にもう一度降りてくるという場合もある。水は曲がりくねった何の変哲もない川に流れ、非常に深く淀んでいて流れていないところにも水は存在する。蒸発して空に行けば雲になり、それが雨になって落ちてくれば、それによって深い淵が出来る。

文子言う「水は天に上がっては雨や露となり、地にふりそそいでは大小の川となる」と。現に僧侶でない人々が書いた本にさえこの様に言っている。まして釈尊の弟子であり、孫弟子であると自称している人々が、この様な僧侶でない人々よりも愚かである事は極めて恥ずかしい事である。水の様子を考えてみると、水が水自身を認識し感受するわけではないけれども、水は水らしく現に流れている。また水が認識されず感受されないわけではないけれども、水は現に水らしく流れている。

※西嶋先生解説
この事は、人間の生き方としても、あの理屈がわかった、この理屈もわかったと言う様な事は必ずしも必要ではない。ただ一日一日を生きていくということが大事。それが人間としてのあり方。ところが理論の方はやかましくあれこれといって、これが本当だ、あれが本当だと言う様な事をたくさん新聞に書いたり、沢山の人が沢山の意見を述べているけれども、どういう日常生活を送っているかということの方がはるかに大事。ところがその方がおろそかになって、理屈の方が非常にうまくなっているという人がたくさんいるわけ。 



          ―西嶋先生の話―

釈尊の説かれた四諦について。 人間の人生遍歴は 1.苦諦―理想主義  2.集諦―物質主義  3.滅諦―理想主義および物質主義に対する絶望  4.道諦―最後に理屈抜きの正しい実践 という過程をたどるが、仏教が目標とするところは、この理屈抜きの正しい実践であって、この正しい実践こそ究極の真理であるという考え方に徹して人生を送る事である。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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