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正法眼蔵 山水経 12

道元禅師の主張は続きます。

川の上に乗っているものは何かというと山である。山が上に上がったり下に下がったりという相対的な関係で色々に動くということも、川との関係があればこそである。山があればこそ、川がその麓を流れるという自然の情景がある。また川が勢いよく流れていればこそ、山もその上を縦横に動き回ると言う情景を呈しているのである。そのような生き生きとした動きが実際に存在しないわけではない。

水は硬くもなければ、柔らかくもない。水は濡れてもいなければ、乾いてもいない。水は動でもなければ、静でもない。水は冷たくもなければ、温かくもない。水は存在でもなければ、不存在でもない。水は迷いでもなければ、悟りでもない。水は硬い場合にはダイヤモンドより硬い。誰がこれを打ち砕くことが出来よう。水は柔らかい場合は乳よりも柔らかい。誰がこれを打ち砕くことが出来よう。今現に目の前にある水の持っている様々な性質を疑う事は許されない。とりあえず水の実体がどういうものかということについても、現実のこの世界(宇宙)の中で、どうあるかということに目をつけて勉強するしかない。

水を見る場合でも、それを見る主体の側の変化で色々に変わって来る。人間が水を見る時節のみを勉強すれば足りるというものではない。水自身が水を見ると言う学び方もある。つまり、はたから見られてどうかと言う捉え方もあるけれども、水そのものをありのままに捉えると言う勉強の仕方である。水が水としての機能を現実に果たしていると言う状態もあるし、水自身が水とは何かと言う事を自分自身の姿で表していると言う場合もある。我々自身が頭の中で色々と考えて、そもそも自分はとか、そもそも世の中とはということを考えているだけではなしに、自分自身が無我夢中で働くと言う状態も勉強してみる必要がある。

自分自身が夢中になって行動している時は、自分が一つの燃える火の玉のような形で働いている。そういう状態のときに本当の自分というものがわかってくる。また自分以外の世界がどういうものかと言う事を実態として捉えると言う場面で、そういう世界の中で行動し、またそれを乗り越えると言う事も必要である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
まさに教団の人あたりは、「あなたは我が強い。自我を捨てなさい。真我を磨きなさい」と言うのはもう常套手段ですね。

先生
そうそう。あれは西洋思想の裏返しですよ。西洋思想は自我を中心にして理論が構成されているわけですね。そうすると自我を抹殺するという考え方も裏側にはあるわけです。だからその裏側の考え方を強調すれば、「あなたは我が強い。それを抹殺しなさい」と言う様な事をいうわけだけれども、釈尊はそんな事は言ってなかったと思う。

そういう考え方が釈尊以前のインドにもあったわけですよ。自我と言うものを滅却して神様にお供え物を捧げれば幸福になれますよ、死んでからいいことがありますよと言う教えがあったわけですけれども、釈尊は「どうもそれは嘘だよ」ということを言われたと、露骨に言えばね。「そんな教えは出鱈目だよ」ということを釈尊は言うためにこの世に出られたということが言える。だからそういう点では、今日行われている有り難い教えと言うものはよく眉に唾をつけて(笑)きかないとね。「あの人は偉い、さすがだ」ということで感心ばかりしていると、おかしなことになってくるということがあると思います。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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