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正法眼蔵 山水経 11

道元禅師の主張は続きます。

かの大宋国において、根拠のない事を言う仏教の一派がある。これらの人々が「理解できない教えが釈尊の本当の教えだ」と言うが、理解できないのはこれらの人々が理解できないに過ぎない。釈尊はその様に言っていない。これらの人々が、そのような事をいくら言って見ても、我々は釈尊以来の理論に従ってどう理解すべきかと言う事を勉強せざるを得ない。もし仮にこれらの人々が主張する「理解できない教えが釈尊の本当の教えだ」とするならば、これらの人々がいま現に理解できないと主張している理解の仕方も、やはり正しくはない。この様に根拠のない事を言う人々が大宋国の様々な地方に沢山いる。その様子というものは、私(道元禅師)自身が宋の国に行った時に実際に自分の目で見たり聞いたりしたところである。

非常に哀れな事である。彼らは人間の考えが、そのまま言葉と言う姿を現すものであり、また人間の使う言葉は人間の頭の働きを越えて、それ以上の意味を持っているという事を知らない。私(道元禅師)が宋の国にいた頃、その理屈ではないと言っている僧侶たちに問答をしかけて「おかしいじゃないか」と言ったけれども、彼らは理由を述べて反論する事は出来なかった。ただ黙って、返事が出来ないでいたにすぎなかった。彼らが現に理解すべきでないと主張していることは、誤った考え方だということに他ならない。

そういう考え方をいったい誰が教えたのか。自然に誰からともなしに教わったと言う事でもないであろうけれども、自然主義を奉ずるところの仏教とは違う考え方に他ならない。はっきり知っておかなければならない事は、この雲門禅師の「東山水上行」と言う考え方は釈尊の教えの真髄である。様々の川も山があっての川である。川は山の下を流れていると言う相対的な関係において現実の姿を示しているのである。.このように川が東山の裾野を流れていればこそ、山もまた雲が山の峰を通過していけば、雲が動かずに山が動いていると言う捉え方もできるし、山が空を歩いていると言う捉え方も出来る。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
街中に多くある仏教教団などの中には、たいていの講師が「小我を捨てて大我につきなさい」あるいは「自我を捨てなさい」あるいは「真我をみがきなさい」ということがお説教の常套手段みたいに使われておりますが・・・。

先生
確かにそういう説かれ方が現在されておりますが、それは仏教思想ではないんですよ。西洋思想。明治以降、西洋の思想を勉強し始めてから、大我と小我があって一体になるんだということを説明の仕方として多く使うようになったわけですけど、それは西洋思想。

質問
そうすると仏教には小我、大我と言うのはないんですか。

先生
いや、昔からそういう説明の仕方もありますけれどね。ただ坐禅をやったうえで、法とは何かというふうな実際の体験と言うものから割り出していきますと、大我と言うものがどっかにあって、小我とどっかで落ち合うんだという風な体験はないですね。どうにもしょうがないこのでくの坊が坐禅をしておるお蔭でそう道を外さないというだけのものです。だから坐禅をしないで酔っ払ってれば、何をするか分からんですよ。私自身だってそうだ。毎日坐禅をやっているから多少軌道を外れないだけのものでね。

これが坐禅をやらないで新宿辺りを飲み歩いておれば、どんな悪いことだってやると思いますよ。金がなくなりゃみみっちい事もするだろうしね。人間と言うのはそういうもんです。だからそういう点では大我があって、それと一体になって無我になったならばましになるなんて、そんなことはあり得ないと思う。無我なんて言うことは私はあり得ないと思う。

このわけのわからんものが、坐禅をやっているから、まあ何となくそうおかしなことをやらないというに過ぎないような気がする。だから道元禅師が「只管打坐」、ただ坐禅をしろと言ったのはそういう意味だと思います。人間と言うのはそう頼りになるものじゃないですよ。坐禅をやっているからやっと線路をそうはずれないだけの事でね。
                                

読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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