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正法眼蔵 山水経 8

芙蓉道楷禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

客観世界を論じ、主観を論じることは、釈尊ご自身が叱られたところであり、心を説き、本質を説くことは釈尊が承知されなかったところである。心を現す、心を見る、本性を現わす、本性を見ると言う事は、仏教徒以外の人々が一所懸命やっているところに他ならないのである。言葉や文句に滞ってあれこれと考えている事は、真実をしっかりつかむと言う言葉とは別のものである。理屈であれこれと論議する世界を乗り越えなければならない。

青山常運歩なり(青い山は歩いている)、東山水上行なり(東の山が川の上を走っている)と言う捉え方がまさに、この世の中の様々の事態と言うものをすっかり乗り越えて、しかも真実を説かれているところの言葉である。丁寧にこれらの言葉を勉強して見なければならない。

「何の変哲もない石も夜な夜な子供を生む」という事は、夜が絶対の決まったもので、その夜に何かがあるということではなくて、石が子供を生む何らかの変化するような時期を逆に夜という名前のつけ方をしているという捉え方もある。我々は無生物の石には、男女の区別がないというけれども、それも人間が仮に決めた事で石にも男女の区別がないとは言えない。石といえども自然の一部として我々と似たような性質があって、それによって天地が出来上がっている。俗世間の人は、よく比喩には「天石地石」と言うけれども、実態がどうかということを知っている人はほとんどない。

この「石が夜な夜な子供を生む」と言う理論を勉強して見る必要がある。子供を生むという時には、親と子が共に変化するのかどうか。親が子供の親になると言う事が、子供が生まれると言う事に限られるのか。逆に子供の方を中心にして、子供が親の子供になると言う関係でもある。この事を究明し参徹すべきである。

※西嶋先生解説  
子供を産むと言っていても、親が子供の親になると言う事も事実だけれども、子供が親の子になると言うのも事実。そういう相対関係のうちに一切の現象はある。これは仏教特有の考え方です。だから会社と社員との関係も、会社があるから社員がある。社員があるから会社があると言う相対的な関係にあるわけです。単に会社と社員の関係だけではない。この世の一切、親子の関係も、兄弟の関係も、親戚の関係も、師弟の関係もすべてが、お互いに相対的な関係を作るというのが実態であります。

ところが我々は、普通こういう考え方は中々できない。自分を中心にして「俺のおかげで」と言う考え方もある。そうかと思うと、全部責任を人様にお願い申し上げて「いや私はだめでございます」といって逃げて回っているという生き方もある。ただ、逃げても逃げられないし、「私が!私が!」と言って出しゃばってみても、自分だけでは何もできないということになると、お互いに助けつ助けられつで生きていく、構成されているのが、この現実の世界と言う事にもならざるを得ない。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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