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正法眼蔵 山水経 7

芙蓉道楷禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

自然を舞台にして仏道があり、自然がなければ仏道そのものが存在しない。自然があり人間が生きていればこそ仏道があり得る。たとえば草木も土も石も、垣根や壁も現実に姿を現して来ると言う事はあるが、それらも相対的な関係において成り立つのであるから、疑って見なければならないということでもないし、動転する必要もないし、絶対の現実だと考える必要もない。どんな素晴らしいものがあったとしても、それが本来の我々の拠り所だという捉え方をする必要はない。

本当に我々が基準として頼りになるものとは、現にある姿だけではない。沢山の真実を得られた方々が実際にやられた道、あるいは実際に行いを積んでいった世界というものが現にあったとしても、それだけを固執する必要はない。沢山の真実を得られた方々が、頭では到底考えられない様な素晴らしい性質を持っていているということが仮にあったとしても、真実はそれだけで、それ以外には何もないということは言い切れない。

この世界におけるそれぞれの存在が、それぞれの絶対の意味を持っている。真実を得られた特別な方々だけが尊いのではなくて、机とか椅子、座布団とか時計とか我々の日常生活を構成している一切の物がある意味では絶対の意味を持っている。個々の事物が絶対かというと、釈尊の説かれた教えがそういう物質と全く同じと言うわけではなくて、一つの限定された場所においてそういう見方も成り立つと言うに過ぎない。



          ―西嶋先生の話―    

ものの考え方はいろいろあって、この世の中には面白いこと楽しいことが沢山ある。酒を飲む事が好きな人もいる。男女関係の遊びの好きな人もいる。家庭が大事だ、子供が大事だと言う人もいる。本を読むのがいい人もいる。競馬が好きな人もいる。山に登るのが好きな人もいる。人生の楽しみは実に沢山ある。その中で坐禅をやってみようかなと言う気を起こして、実際にやると言う事は非常に例の少ない事です

坐禅をやってみようかなと言う気を起こす事は、恵まれた人でないと中々そういう気は起きない。たまたまそういう気を起こしても、実際にやる機会が少ない。また自分自身が実際にやると言う事がなかなか出来ない。仏道は、各人に最高の生き方を与える教え。最高の生き方はどうやって見つけるかといえば本を読んでも書いてない。ジ-ッと坐っている経験をすることによって、本当の自分自身がにじみ出てくる。そのにじみ出てきた自分自身に忠実に生きていく事が、各人にとっての最高の生き方になろうかと思う。

今日、新聞や雑誌、週刊誌などを見るといろいろな事が書いてある。だけども、そんな中で本当の事と言うのは割合少ない。新聞や雑誌、週刊誌も売れなくては困るから、読む人が喜ぶような事を一所懸命書く訳です。そういう点では、それらに書いてあることが全部本当かと言うと、到底そんな事はありえない。ほとんど本当のことは書いてないという恐れもある。そのくらい人間の思想はややこしいもの。そのくらい人間の思想は色々な考え方と言うものがある。

だから、正しい考え方、本当の意味で自分の人生に役立つ考え方を仏道を通して坐禅を通し見つけていくことが、我々のやっている事ではなろうかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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