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正法眼蔵 山水経 5

芙蓉道楷禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

山も人間のように感情があるとかないとかと決め付けるわけにはいかない。人間といえども感情があって、精神的な働きがあると決め付けるわけにはいかない。単なる物質のかたまりでないとは言えない。自然と人間との間でそう大きなけじめはつけられない。したがって山が歩くと言う事も疑う事が出来ない。その点では、どの範囲の世界を極限として山を観察したらよいのかと言う事は断定し難い。

「青々と木の生い茂った山が歩く」ということ、あるいは「自分自身が歩く」ということについて十分に検討して見る必要がある。歩みを遅らせる場合も、歩みが遅れる場合も、双方をよく検討して見る必要がある。無限の昔から、過去の世界はどんなものかわからなかった。今日の状態から考えてみても、無限の過去から様々な変化があり、進歩があり退歩があったと言う事は考えざるを得ない。常に何らかの変化があり動きがあったということは信ぜざるを得ない。もし、そういう動きがほんの一瞬間でも止まる様な事があったならば、釈尊と言う人格もこの世の中に出現したはずがない。

釈尊の教えが今日まで伝わってきたのは、無限の過去から無限の未来に亘って、何らかの変化する事のない恒常的な何かがあるということにならざるを得ない。したがって、進歩も常に行われているし、退歩も常に行われている。この点では、我々の住んでいる世界は、陰と陽と言う二つの相対する力があって、それが両方あるところに我々の人生があり、我々の住んである現実がある。この様な進歩と退歩と言う二つの性格、攻撃と防御と言う二つの性格がともにあって、両方が常に働いていると言う事を、ある時は山が流れると言い、ある時は流れる山という。



          ―西嶋先生の話―

この「山水経」は「正法眼蔵」の中でもかなり難しい巻です。 こういう巻は今日だから理解が出来る。西洋の思想をよく勉強して、相対性原理や地動説、天動説がどう言う事かがわかってきて、あるいは絶対、相対とかと言うものの考え方がわかってきて、やっと「正法眼蔵」が読めるような時代になった。

鎌倉時代に、こういう文章を書かれた道元禅師の頭脳は、これはとてつもない頭脳です。 それと同時に当時の人々が、中々読みきれなかったと言うのももっともです。今日でもかなり難しいが、我々の人知が進んできていろんな学問が進んだから、やっと最近すこし理解が付き始めたかなと言う事です。 ところが書いてあるのは本当のことだから、こういう勉強をしていると基本がわかってしまう。人生の基本がわかる。

今日でも本屋さんにいけば沢山の本があるから、片っ端から読むと色んな知識が頭の中に入り込んでこれも結構なほど面白い。 しかし、人生の基本と言うものはそういくつもない。そうすると、その基本的な事をしっかりつかむと言う事が、人間がどの様に生きていくかと言う事とかなり関係があるということにもなる。 だからそういう点では甚だ難しい本であるけれども、勉強するだけの価値はあるという事でもあろうかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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