トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 有時 17

帰省禅師の言葉について道元禅師の主張です。

従来たくさんの先輩の方々が、時間について前述のように色々言っているけれども、自分自身(道元禅師)として、さらに何か言わないでそのままにしておく事ができようか。自分の言葉として言うならば、「意欲や言葉が半ば充実しているのも、現実の時間においてであり、意欲や言葉が半ば充実していないのも、やはり現実の時間においてである」と。この様に参究してしかるべきである。

また別の言葉でいえば、人が眉毛を上げたり瞬いたりする動作も、中途半端な時間において行われるのであり、人が日常生活において様々の行動をしているという事も、誤った状態における現実の時間における行動に他ならない。なんらかの動作をしないと言う事もまた中途半端な時間においてであるし、そういう動作をする事が誤りだと言ってみても、それもまた時間においてである。この様に様々な角度からこの問題を勉強してみて、わかったとかわからないとかと言ってみても、それらの一切が現実の時間における事態に他ならない。

※西嶋先生解説
我々の人生というものは、様々の動きがあり、ある場合には非常に結構、ある場合には非常に不幸というふうな様々の評価の仕方があるけれども、それらの一切が全て時間において行われている。その事は、我々が「オギャ-」と生まれてから死ぬまでの間、一所懸命過ごしていく瞬間、瞬間以外には何もないと言うこと。いいとか悪いとかと言ってみても、何かしたとか何もしないとかと言ってみても、それらは全て我々の人生における、時間の一こま一こまという事に他ならない。

そうすると、いいとか悪いとかと言ってみても、そんな事よりも大事なのは、自分自身が一所懸命に生きているかどうかという事に他ならない。他人が「あいつはけしからん」と言ってみても、あるいは他人から誉められてみても、誉められるとか貶されるとかと言う事は大したことではない。一番大切なことは、自分自身が一所懸命に努力しているかしていないかという事に尽きる。それが人生。だから、それを誰もが担っているということ。。そういう時間を誰もが担っているわけだけれども、そのことに気が付く人、気が付かない人とがある。気が付いて一生を送る人と、気が付かないで一生を終わってしまう人との違いというものはある。

仏道がなぜ必要かといえば、自分の人生というものが持っている意味をつかむということがある。それは偉いとか偉くないとかと言う問題を乗り越えた、自分の生命の瞬間、瞬間の現れというものに気が付くか気が付かないかに尽きる。そういう立場から人生を見直してくると、ものの見かたが多少変わってくる。人に誉められるとか、誉められないとかという事はたいした問題ではないということ。自分自身の人生を真剣に生きているかどうかということが絶対の問題として、各人の問題として出てくるという面がある。だからこの「有時の巻」で説かれているのは、そういう意味も含めて、この我々の人生というものが本源においてどういう事かと言う事を言われているという事になろうかと思う。

         「正法眼蔵有時」
         1242年10月1日  
         興聖宝林寺においてこれを書いた。



          ―西嶋先生の話― 
 
正法眼蔵では、道元禅師は常に四段階の思考方法を使っていると思われます。 第一段階では全てを観念論的に、いわば抽象的、理論的に説明しています。 第二段階では、急に見方を変えて同じ事を唯物論的に、具体的な事例や物語、仏教経典 の引用を用いて説明します。 この二つの段階は我々の共通の思考の領域に属しているので、我々はそれを知的に理解する事が出来ます。

しかし道元禅師の考えはさらに先へ進み、第三段階で行為の領域に入ります。 我々が悟りを尊ぶ理由は、知的な考察から行為の領域へ飛躍するところにあります。 行為の領域は知性の領域ではありません。しかし我々の思考は知性の領域に属しており、知性の領域から行為の領域に飛躍する事は我々にとって非常に難しい事であります。その意味で仏教では、悟りが尊ばれているのです。そして第四段階で道元禅師は現実そのもの、つまり行為と宇宙の法則とが一体になっ た領域を述べております。この四つの段階の中で第三段階の行為の哲学は、仏教における時間を考える上で特に重要です。
 
(2000年10月、ドイツ、ハノ-バ-で行われた西嶋先生の講演(英語)から一部を抜粋いたしました)


読んでいただきありがとうございます。


  
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

FC2カウンタ-